『小→大』なのか、『大→小』なのか①

ボクはこれまで、
何かを理解していくために、
あるいは何かに取り組むために、
どこから始めるべきか、何から手をつけたらよいか、長いこと悩んできた。

ボクは、どの時代の多くの小学生と同じように、勉強なんて嫌い、やりたくない、と思っていたけど、それはなぜかというと何の意味があるのかわからなかったから。

漢字の読み書きとか計算問題とか、子どもながらに何となくやっておいた方がいいことくらい理解していたし、いずれ必要になることだってわかっていた。
でも、それは結局ボクにとってはあまり具体性もなかったし、全くモチベーションに繋がらなかったから、親や先生に怒られたくない、学校で恥ずかしい思いをしたくない、という消極的な理由でとりあえず勉強をしてきたに過ぎなかった。

とりあえずやってきた勉強は、ありがたいことに今役立っているので、もちろんボクは今の子どもたちにも勉強は大切だよ、ちゃんとやった方がいいよ、と思う。

子どもたちに関わる大人の役割って、あるいは誰かに何かを伝える立場の人の役割って、こういうところなんだろうと思う。
ちょっと別の話をしてみよう。

ボクは大学生になってからとある弦楽器を始めた。ボクの家族は音楽一家だったこともあり、また幼い頃にはピアノをやっていたこともあり、あまり苦労せずにその世界に入っていけたとは思う。
大学生になってから弦楽器を始めるというのは、並大抵のことではない。普通に生活してるときにはほぼあり得ない不自然な格好で、普段使わない筋肉を使って演奏しなければならないわけで、体がある程度できあがってしまっている大人にとってはけっこうな苦行。
だからこそ、基本的な動作、練習がかなり大切になってくる。ボーイング(右手のストローク)や音階練習(左手指の正確な動きなど)は必須だし、そこにかなり時間が必要。
オーケストラサークルに所属したものだから、オーケストラ曲を練習する必要があるけど、基本的な練習を積んでいないと、たとえ弾いてみたとしても曲にならない、何の曲がわからない…。絶望的である。
ボクは音楽経験があったこともあって、それを知っていたから、コツコツ基本的な練習を続けた。なかなかいい感じに成長できていたと思う。

楽器を始めて1年半ほどして、初めてプロの音楽家の下でレッスンをしていただくことになった。日系のアメリカ人のプロオーケストラ奏者。
今では大師匠様であるが、その師匠はレッスン中にボクに毎回求めてきたことがある。

『キミはどう弾きたいの?』

課題とされた曲を練習してレッスンに行っても、技術的なことは一切教えてくれなかった。それよりもまず、ボクがどういう曲にしたいのか、どういう音楽をしたいのかを表現しようとすることを求められた。

ボクは、音楽が好きで、演奏したい曲もあって、憧れる演奏家もいて、あんなふうに演奏したいな、自分なりの音楽を表現したいなと思っていたけれど、師匠には全く届いていなかった。

なぜか。

それは、ボクがこれまでコツコツ練習してきたことは、たしかに技術的には向上していたものの、それらが一切曲へと結びついていなかったのだ。
細かい技術は何のためにあるのか、ボクは何のためにボーイングや音階練習をしているのか。師匠はボクの音楽への取り組み方の根本的なところを見直す必要があると考えていたのだと思う。

音楽の世界に身を置いてわかってきたのは、わりと日本人の音楽家は、まず何よりも細かい技術を徹底的に習得することを求めようとする気がしている。このnoteのタイトルにある『小』の部分だ。
でも、そういった技術(『小』)は、結局表現したい音楽を奏でるために必要な道具の1つでしかない。音楽家にとって、技術の習得が最終目標ではない。その人にしかできない音楽、その時点で表現できる最高の音楽、つまり『大』の部分を目的にしなければならない。

アメリカ人の師匠は、きっと当たり前のようにそうやって育ってきたと思うので、ボクの演奏にかなり物足りなさを感じていたに違いない。
だからこそ、ボクに対してまずは『大』を見なさい、考えなさい、念頭に置きなさい、と伝えてくれていたのだ。

勉強も同じだと思う。
小学生に対して、『大』を見せずに『小』をやれとひたすら伝えても、なかなか伝わらないし、勉強なんて前向きに積極的にやってくれない。『小』の部分に魅力を感じてモチベーションが上がっていく子どもたちは、かなり少ないと思う。

ボクは師匠に出会って初めて、身をもって『大→小』の考え方に触れて、経験することができた。『大』があるから『小』を考えることができるんだ!という経験は、素晴らしいものだったし、それはサッカーを指導する立場になったボクに大きな影響を与えている。

長くなったので、次回はサッカーについて、このテーマで書いてみよう。