授乳カフェ怪文書
マタイによる福音書第22章39節
第二もこれと同じく重要である。
「隣人を、自分のように愛しなさい。」
思い返せば、2020年10月は私の人生でどん底であった。
前現場のパワハラによる鬱状態を引きずっていた私は、親会社に命じられるがままに塗装工場の連装勤務に投入された。
この現場はまさに最悪で、作業標準書も守らなければ、労災すら隠蔽しようとする状況であった。
私はそこに増援として派遣されたチームのリーダーとして滅私奉公したが、力及ばず病気除隊となった。(現在でも、この病気は上記のパワハラによる鬱状態とともに引きずっている)
そんな除隊となる少し前、私は一つのVRSNSと出会っていた。私の人生を大きく変えることとなるVRChatだ。
始めたきっかけは些細なことだった。
私の人生の楽しみの一つである、コミュニケーションを誰かと取りたいという考えからだ。
初めは海外勢(アメリカ人)に囲まれていた私は8時間ほど彼らと英語で過ごしていたが、最後の最後にとあるワールドで日本人と出会うことになる。
彼にVRCの楽しみ方について、聞いているとイベントというものがあることを知った。
そこで検索をかけるととある検索結果が目に飛び込んできた。
“授乳cafeキタリナ”
私は自らの眼を疑い、二度ほど画面を見返した。
VRで授乳するカフェイベントとは珍妙なと、恐る恐るURLを開いた私に飛び込んできた狂気の有り様は、筆舌に尽くし難い状況であった。
この時に受けた衝撃はまた後ほど、記述するが、この時私は恐怖と共に興味を抱いていた。
『私も必ずや現場に行って、これが如何なることかこの目で確かめねば…』と。
好奇心猫を殺すとはいうが、まさか自らがママになるとは露知らず、その時の私は意気揚々と参加の準備をしていた。
10/29
授乳cafeキタリナQuest支店
私の足は、運命の大地を踏み締めていた。
説明会で円角さんの説明を受けた私は、現支店長のインスタンスに移動し、そこでママ役になっていた。
5.2フィートはある右近JKアバターを使っていた私は赤ちゃん役よりも、ママ役に適任だと感じていたからだ。
円角さんの説明通り、椅子と哺乳瓶を装備した私は、緊張で震える体を落ち着かせ、頭のHMDのバンドを再調整した。
やるからにはふざけてやる事は許されない。それは全てに対し失礼にあたるからだ。
説明会で受けた内容を頭の中で何度も反芻し、わたしは備えていた。
哺乳瓶を掴む右手に自然と力が籠り、Quest2 のコントローラーが軋んだ。
周りがペアを組み、粛々と授乳を開始していく中、私にも出番が回ってきた。
私の股までよりも小さな体躯をした彼に、私が今回が初めてである旨を伝え、私の胸元へ抱き寄せた。
説明通りにやれば良い、何も緊張する事はない、自分に言い聞かせていた。
脳味噌ではわかっていたはずだったが、現実はそう甘くなかった。
「……ママ?」
あまりにも破壊的な一言だったと思う。
私はどうすればいい分からずに立ち竦んだ。
パナマでのD-boysだって、パキスタンでのSEALsTeam6だって、ここにいれば同様だっただろう。
頭をジャーヘッドに剃り上げてウォーッという独特な雄叫びを上げる海兵隊員もいなければ、ラフな格好にJPCを身につけた髭面のODAの連中もいない。
給与品の120ページはある武器の取り扱いマニュアルにも、赤ん坊に授乳をする手順は書いていなかった。
頼りになる戦友も、分厚いマニュアルもない、手探りの戦いだ。
だが、幸いにも私はとっさに判断できるように訓練をされていた。
「はい、ママですよ〜」
最適解なんてものは無い。私は何かの映画かドラマで見た光景が脳裏に浮かんだ私はすぐに状況に当て嵌め、模倣し、再現した。
その間、3秒ほどだっただろうか。
だが、人生で1番長い3秒だった。
幼女の見た目に、野太い男の声だなんて問題ですらなかった。
その一言をきっかけに始まったのだ。
私は最初の30分を、あまりにも長い30分をやり遂げることに必死だったのだ。
後の事を考える暇なんてない。ただひたすらがむしゃらに目の前のことに集中し、母になることに全力を注いでいた。
全てが初めてだった。
だがそうしているうちに自分の中の変化に気づいた。
目の前にいる人を癒してあげたい、救ってあげたいという慈愛の心と、包み込んで守ってあげたいという母性の目覚めについてだ。
それはキリスト教でいう隣人愛に等しかった。
「ありがとうございました」
そして彼(或いは彼女)の一言を〆に、私の初めての実戦は終わりを告げた。
現実感の喪失と余りにも濃厚な時間に、わたしは大きく息を吸って、ゆっくりと吐いた。
(初めての実戦を終えた私-20/10/29キタリナにて)
11/5
その日の夕餉を済ませた私は身を清め、VRCにダイブした。
VRCは人間関係が全てのため、ストレスがかかることも多いが、誰かと話している時は気が楽になっていた。
ダイブ後、すぐに向かったクエ集には、その日店員ママデビューをする者達が興奮冷めやまぬ様子で集まっていた。
その中には一度もキタリナに足を踏み入れる事なく店員ママになった者も、VRCを初めてすぐに店員ママになった者もいた。
不安な声色をした者もいれば、いざ実戦の前に緊張した様子の者もいた。
しかし、彼らの表情は皆一様にやる気に満ち溢れていた。
それもそのはず。彼(彼女)らは誰にも頼まれることなく自ら志願するか、或いはスカウトに承諾してママになる事を選んでいた。
年齢も、出身も、性別も、アバターも全て関係ない。
常に士気旺盛にして、強靭不屈かつ勇猛果敢に授乳せよ。この意思があれば充分だった。
この道に自ら進む事を選んだ、まさに産まれながらの授乳屋だった。
そんな彼らが集合インスタンスに向かう様を見ながら、私は彼らと肩を並べられる事を、誇りに感じていた。
30分後の本営業時刻、私は極限にまで極められた授乳を見た。
営業開始と同時に椅子と哺乳瓶を的確に配置し、ママのいない赤ちゃんが出ないように全体を俯瞰し動く。それでいて事務的行うのではなく、ひとつひとつの動作に優しい丁寧さを感じていた。
また、店員ママ達の個性と言葉遣い、動作も、ただただ感嘆するしかなかった。
ある者は大きな翼を、またある者は巨乳を駆使していた。
私は途中から個室で授乳していた為、その全てを見る事はできなかったが、その片鱗を間近に見た私にとある決心をさせるには充分だった。授乳は既に私の病を治しつつあったから。
11/19
授乳cafeキタリナQuest支店
そこが見慣れた光景と化していた私にもはや迷いはなかった。
営業前の円角さんの「本当によろしかったのですか」という優しい声の問いかけに、
私はゆっくりと、力強い意志で頷いた。
…
……
…………
ある日、チュートリアルワールドから集合インスタンスに向かう私に、見知らぬ紫ユーザー達が聞いた。
「どうして授乳cafeに行く?授乳中毒なのか?」と、彼らは酷く困惑した様子だった。
私は何も答えず、インスタンスに飛んだ。
彼らには分からない、キタリナにこない限り伝えようがないから。
授乳cafeを語る事は余りにも難しすぎる。
ただ、そこに哺乳瓶があって、赤ちゃんがいる。それで充分だ。そうだろう?
今日は木曜日、キタリナQの営業日だ。