第二章(4)急接近@温泉

更新履歴
[2018/07/23]
・改行ルール統一
・一部表記訂正、誤字修正、追記

「と言う訳で、悪い女神に召還された俺は、これまた悪い魔王に拐かされて、哀れ魔物にされてしまいましたとさ。
とっぴんぱらりのぷぅ」
「長くねーよ、短けーよ」
一文で語り納めたロックにノータイムで突っ込む尚文。流石に自分に対する突っ込みは切れ味が良い、がどこか茶番めいた雰囲気になる。そんな白けた空気を察してか照れ隠しか、不機嫌そうに二人は視線を逸らせた。
「魔王は人間を魔物に変えられるの!?」
「にしては見た目は変わらないな。しかし、一体何のために?」
「なんでも俺がいると俺が戻ってこられないとか何とか?」
興奮気味に身を乗り出すウィンディアとそれに追従した錬の問いに対して、ロックの答えは要領を得ない。キールは訳が分からないという顔で言った。
「? 何言ってんだ?」
「女神メディアとの最初の戦いの後のことですね? ロックさんがメディアに召喚されたことで、この世界に尚文さんが再び戻って来られない可能性があったということですか?」
樹がロックではなく真緒の方を向いて尋ねた。真緒は大袈裟に驚いた顔で、音を立てずに拍手して賞賛する。
「ロックのいい加減極まる説明でそこまで理解できるなんて、川澄様は天眼通をお持ちのようですね。ご明察です。
『同一存在の多重召還禁止』という世界の理に抵触する恐れがありましたので、それを回避するために別の生物、魔王の眷属に変えました」
「尚文が戻ってくると知っていたのか? 死んだとは思わなかったのか?」
「種明かしをしてしまえば、これです」
真緒は眼鏡を外して水晶玉に変えた。それを掌の上で浮かして見せる。
「この水晶には未来予知、予言の力があります。日時は指定できませんし、極稀に動作する程度の期待値の低い能力ですが。
あの世界融合の前日、私はメディアの復活と勇者の敗北を『視』ました。 それ故、少ない時間ではありましたが、最悪の事態を回避するための手段を講じることができました」
「あれは不老不死の薬を聖武器に使用していたから生き返ったと、盾の精霊から聞いたんだが?」
「薬の効用に関しては誤りではありませんが…
あの時メディアが使用した『インフィニティ・デストロイヤー』は並行世界や分岐世界も含めて広範囲に放たれました。
残念ながら即死避けの効果『世界の守り手』は分岐世界には及びません。
つまり」
「分岐世界の俺も死んでいるはずってことだ。実際、死にかけたんで何らかの影響はあったのかもしれないけどな」
被り気味に話すロックを冷たく一瞥し、「ロックを助けることが目的だった訳ではありませんが」と冷めた声で申し添えてから続ける。
「あの瞬間、私は世界の理に干渉し、盾と剣の精霊のリタイア報酬を即時に発動させました。『世界の守り手』が発動する前に。精霊が予め報酬を準備していてくださったお陰ですね」
「世界の理に干渉? 俺も尚文もHPがゼロになって、身体がバラバラに吹き飛ばされたんだぞ?」
「女神メディアを欺く必要がありましたから、幻術も使いました。目的は、神様達と神狩りを引き合わせること。神様達がご自分の世界に戻れば、またここに来ようとする。その時に神狩りと接触していただくのが目的でした」
「神狩り? アークのことか!」
「お知り合いだったのですか?」
尚文とラフタリアが驚きの声を上げる。
「直接お会いしたことはありませんが、相知の間柄にございます――」
真緒はその後にも何か続けて話そうと口を開いたものの声には出さず、唇を結び笑みを湛えるに留まった。
「…俺達がここに戻ってきたのも、世界の代行者になったのも、魔王の手の内だったと言いたいのか?」
尚文の静かに膨れ上がった怒気は言葉となって、真緒に突き刺さらんばかりに見えた。魔王はそれを正面から受けてなお僅かに首を傾げたのみで、微笑を崩さない。
「私は神狩りの力を借りるものと思っておりました。神狩りがお二人に試練を課すこと、それを乗り越えて世界の代行者の力を得ることなど、予想できようもありません。
そもそも、メディアが盾の神様を再召喚したこと自体想定外でした。
その後はもう後手後手になってしまい、お恥ずかしい限りです」
「メディアに召還された時は、『お前は盾の勇者なのか、勇者だった時の記憶は無いか』と、まぁ随分と詮索されたもんさ。だけど、メディアの目的は、勇者達に絶望を与える事だったからな。結局、本人じゃなくても外見が似てれば目的は果たせるって判断されたらしい。そっちに送り込まれる寸前に、この魔王様に攫われちまったけどな」
ロックはそう言いながら馴れ馴れしく真緒の肩に手を置こうとしたが、素気無く避けられる。
「成りすましであれ、盾の勇者岩谷尚文様が存在する事で、本物の盾の勇者が戻って来られなくなることを危惧したのですが…
盾の神様は盾の勇者を超越した存在になっているので、世界の理に抵触する可能性は限りなく低かったのです。自らの浅慮の結果とはいえ業腹です。
魔王の眷属になどせず、他の転生者のように処理してしまうべきでした」
「ふぇっ、マオ様が怖いですぅ」
水晶をまた眼鏡の形に戻して掛けつつ、剣呑な台詞を吐く真緒。その言葉と気配に恐怖するリーシア。毒を含む言葉を吐いた口に右手を当てて赤面した後、真緒はすまし顔で軽く咳払いをしてから皆に問いかける。
「とは言え、盾の神様の分身のようなものですから、こちらで勝手にごにょごにょする訳にもいきませんし。どうしましょうか?」
「どうしましょうかと言われても…」
勇者達はお互いに顔を見合わせ、最終的に尚文を見る。
「尚文以外に決断できるヤツがいないと思うぞ」
苛立たしそうに腕組みをして押し黙る尚文。ただでさえ『もう一人の自分がいる』という異常事態、しかもそいつは魔王によって魔物に変えられていて、さらにはその魔王にアプローチを掛けてはあしらわれる好色な姿を見せ付けられ、不快なことこの上ない。ある意味、自己嫌悪だ。
様々な感情から思考停止寸前の尚文の腕に、ラフタリアがそっと手を添えて意見した。
「こちらにいる数日の間は様子見、というのはどうでしょうか? ナオフミ様も結論を出すのに、考える時間や材料が必要かと思いますし」
尚文にも周囲にも特に反対意見の無さそうな様子を見て真緒は頷く。ロックはおどけた調子で「とりあえず寿命が数日延びた」と軽口を叩いた。

話し合いも一段落した頃合を見計らって、真緒の背後に着物を着た亜人の女が歩み寄り、耳打ちする。
「皆様のお部屋とお風呂の準備が出来たようです。今からご案内いたしますので…」
椅子から立ち上がって皆を案内しようとした真緒の声が途切れた。胸の下で両手を握り締め、項垂れている。
「おい」
顔を上げたほんの一瞬、今まで見せた事のないような思いつめた表情をしていた真緒。しかし、直ぐに元の穏やかな笑みを浮かべ、人払いをさせる。
使用人たちが謁見の間を出て、勇者達だけになってから話し出した。
「皆様、これは水晶の勇者の言葉としてお聞きください。
私は… 私の希望はロックを皆様に引き合わせたことで殆ど叶いました。
よって、明日の会談前にメルロマルクへお帰りになることをお勧めします」
「は?」
突然の提案に理解が追いつかない勇者達。
「皆様はこれからも人々を、世界を導いていくお立場。魔物の事を知り、心を寄せてしまえば、何れ自身の立ち位置を見失うことに成りかねません」
「真緒さんはどうなんですか? 水晶の勇者だって」
樹の言葉が、真緒の笑顔に憂愁の入り混じった影を落とす。
「私には、人の世界に居場所がありません。ですから、立ち位置で悩む必要もありません。
でも皆様は違う。あなた方が守ってきた、そしてこれからも守り続ける人々の中には、お身内を魔物に殺された人も大勢いるでしょう。
そしてその魔物はここにいる魔物とは違う、とも言い切れないのです」
「招待状で呼びつけておいて、今更そんなことを言うのはどうなんだ?」
「勿論、魔王としての私には、別の思いも希望もあります。ですが、それはそれ。
今すぐお決めいただくつもりはありません。温泉でのんびり骨休みをしていただき、夜の宴をお楽しみいただきながら、お考えください」
「そちらの歓待を受けておいて、直前で会談をキャンセルして勝手に帰るというのは、余りにも無礼かと思いますが」
「此方の供応に非礼や手抜かりがあったことにすれば、よろしいかと。
まぁ、今の言葉は心に留めていただくとして、先ずは皆様をお部屋にご案内いたしましょう」
真緒は努めて明るい声で話を一方的に打ち切り、両手を叩いて改めて使用人らを呼んだ。
着物を着た女に男性陣を部屋に案内するように指示し、自ら先導して歩き始める。その様子は先程までの快活な魔王の姿に戻っていた。
勇者達も立ち上がり、それに付き従う。
「部屋は男女別なのか」
「まぁ、いいんじゃないか」
「ぜんぜんよくないよっ もーくんとべつべつなんて」
「まったくですわ」
「我侭を言わないでおくれ、我が天使達。俺もフィーロたんに添い寝する事の叶わぬ悲しみに耐えているのだから」
「やー!」
「あーら、夜這いすればいいんじゃない? 私も、今宵はナオフミちゃんと褥を共にしたいわぁ」
「あの… 念のために申し上げておきますが、男女とも大部屋ですからね? その上で、というのであれば何も申しませんが…」
「夜這いは禁止だ。破ったものにはラフタリアが罰を下す。以上」
「またそうやって私の事を暴力装置扱いする…」
勇者の一行は喧しくお喋りをしながら、入口のロビーを渡って右手の建屋内へと進む。先程までとは違い天井が低くなり、全体的に人間サイズの調度に変わっていた。フィロリアル達は人型に変化し、サディナは窮屈そうに身を屈めている。 レトロモダンな和洋折衷の内装で壁は土壁となり、床は毛足の短い絨毯とも毛皮ともつかない不思議な柔らかい感触の素材で、踏んだ場所が仄かな橙色の光を放つ。時折すれ違う亜人や獣人の従業員も和服や作務衣などを纏い、お辞儀する所作も堂に入ったものだ。
「あの服も内装も魔王様の趣味か?」
尚文は上機嫌で前を歩く魔王の背中に話しかける。肩越しに尚文を見る真緒の眼鏡に隠されない横顔から紅瞳が露になる。
「はい。里心がついたものとお笑いくださいな」
「帰りたいなら後少しの辛抱だな。聖武器の報酬は知っているだろ?」
「――そうですね」
真緒が前を向いたために、その紅の光を放つ眼が大きく揺らいだことに尚文は気付かなかった。
どうやら男部屋と女部屋はフロアが違うらしい。階段で分かれようとした時、頭の後ろに手を組んで最後尾を付いて来たロックが真緒に聞いた。
「なあ、真緒。 俺もこいつらと一緒にいてもいいか?」
「他の皆様のお許しがいただけるのであれば、どうぞ、ご随意に。ですが、貴方の分の宿泊費と食費は後で請求しますからね?」
「げ」
交渉を始めた男達をその場に残し、女達は階段を上っていく。上のフロアの一室の前に着くと、真緒はドアを開いて皆を中に招き入れる。
そこは縦長の広い玄関で、右半分は土間になっていて草履やサンダルが並べられていた。右側の壁には棒状のものを立掛けやすいようにフックが何箇所か設えてあり、そこに置き傘と思しき和傘が数本立掛けられている。土間の突き当たりは低い扉があり、上には花が生けられていた。
左半分は半間ほどの奥行きの式台、そしてさらに脛位の高さの上がり框の上に四畳ほどの板張りのホールがあり、その奥は襖で仕切られている。
ミュールを脱ぎホールに上がった真緒が突き当たりの襖を開くと、その向こうに畳敷きの広々とした和室が見えた。ホールの隅に置かれた桶を引き寄せ、中に入っていた手拭いを絞っては、裸足の勇者達に手渡す。
「館内とこの近辺を散策するのであれば、そちらに置かれた草履やサンダルをご利用いただけます。あと、室内で裸足が落ち着かない方は、こちらの足袋、靴下をお使いください。伸縮性はありますが、それでも大きさが合わなければ調整しますので言ってくださいね」
真緒は式台の上に置かれた籠から小さい靴下を取り出し、実際に伸ばして見せた。フィーロ達は手拭いで足を拭いてもらうと、和室に走りこんでいく。
「ここも畳だー」
「裸足で部屋に上がるの、ドキドキする」
「フィーロはいつも裸足だよー」
「広いお部屋ですね!」
「なんだか懐かしい感じだわー」
真緒は部屋の奥へと進むと、掃出し窓を開け放った。比較的広いバルコニーからの眺めは良く、辺りの景色が一望できる。バルコニーの片隅には七輪が設置され、その上には鉄瓶が置かれていた。真緒は鉄瓶の中を確認してから七輪の炭に火をつけ、室内に戻る。そして大きな卓袱台の上に置かれた紙を広げた。
「こちらが館内の見取り図です。今いるお部屋が三階のここになります。
お風呂は一階のこちらと四階のこちら。日の出と日の入りを境に男女の割り当てが入れ替わりますので、ご注意ください。そちらに置いてある浴衣と手拭いはご自由にお使いいただけます。
お食事は二階のこちらの広間でお出しします。時間になりましたらお声掛けしますので、それまでゆっくりとお寛ぎください。
それでは」
「あ、待ってください、マオ様」
一礼して退室しようとした真緒をラフタリアが呼び止める。
「大変あつかましいお願いなんですが…」
「なんでしょう?」
柔らかな所作で首を傾げる真緒。
「ここにいる殆ど全員が、こういう環境に不慣れなんです。よろしければ、案内役として付き添いをお願いできませんでしょうか?」
「これは… 気が付かなくて申し訳ありません。すぐに然るべき人を付けさせますね」
「マオ様に、一緒に居ていただくことはできませんか?」
申し出たラフタリアの眼差しは、常に無く真摯で強い。彼女にしては珍しく遠慮のない態度にエクレールは困惑の声を上げる。
「ラフタリア?」
「…神様にそのように申されては、お断りできませんね。
申し送りをして参りますので、少々お時間をいただけますか?」
真緒は暫し思惟した後、ゆっくりと微笑んで答えた。そして、改めて一礼し軽やかな足取りで去っていく。
部屋の扉が閉じた後、ラフタリアの回りにエクレール、リーシア、サディナが集まる。
「ラフタリア、あれでは先方を信用していないと言っているようなものだぞ? そういう意図が無いのは分かるが、言動には気を付けないと」
「あら、お姉さんはいい考えだと思うけどな。万が一に備えるためにもね」
「万が一って… そんな人には見えないですけどねぇ」
「ええ、私も単にマオ様のことをもっと良く知りたくて… すみません」
自らの短慮な行いに恥じ入るラフタリア。改めて魔王に魅了されていたことを自覚する。
「マオウだからなのかわからないが、独特のオーラがある人だな。立ち振る舞いや所作にも品があるというか目が惹かれるというか」
「声を聞いているだけでも癒されますよぉ。動作も洗練されてますよねぇ」
どうやら、エクレールとリーシアも惹き付けられているようだ。カリスマというものだろうか? サディナは危険なものを感じつつ、話題を変える。
「さて、ちっちゃい者達の面倒をどうやって見ようか」
「誰がちっちゃい者ですか!」
バルコニーから外を眺めている他の勇者達を見ながら言ったサディナの台詞に、メルティは勘良く気付いて肩を怒らせて歩み寄ってきた。
「あ、メルティちゃん。皆を集めてもらえますか?」
「あ、うん。
はい、皆集合ーっ」
メルティの号令で子供達やフィロリアル達が集まる。
「じゃあ、チーム分けをしましょうね。
お姉さんチームは私とラフタリアちゃん、エクレールちゃんにリーシアちゃん。
ちっちゃい者チームは、メルティちゃんがリーダーで、キールちゃん、ウィンディアちゃん、フィーロちゃん、クーちゃん、マリンちゃん、あ、後、お付の影の人もかな」
「ちょっと! 何で私がちっちゃい者チームなのよ!」
メルティが再びサディナに噛み付く。
「あらー だってメルティちゃんをお姉さんチームに入れちゃうと、フィーロちゃんやお付の人も付いてきちゃうでしょ? まとめる人が居なくなっちゃうじゃない」
「う~っ」
「メルティちゃん、別に仲間外れにする訳では無いんです。見知らぬ場所なんで、行動を監督する人が必要なんですよ」
「フィロリアル達は特に奔放だからな」
「基本的に皆で一緒に行動しますから」
「…わかったわ」
ラフタリア達の口添えに不承不承メルティは頷き、ちっちゃい者チームを取りまとめる。
「いいですか、単独行動は厳禁! 必ず二人以上一緒に行動すること。皆と別行動をしたい場合は、事前に私かお姉さんチームの誰かに伝えてからにすること。それから…」
テキパキと指示を出すメルティの後ろで、サディナがほくそ笑む。
「サディナお姉さん…」
「見事に押し付けたな、サディナ殿」
「あらー適材適所でしょ?」
ひそひそ話をするサディナ達お姉さんチーム。 そこに
「らふー」
ラフちゃんがラフタリアの肩越しに現れる。
「あら、ラフちゃんのこと忘れてた。ラフちゃんはお姉さんチームね」
「何で…っ」
ラフちゃんがお姉さんチームなのよ、という言葉をメルティは飲み込んだ。神出鬼没なラフちゃんを監督するのは無理だと解っているからだろう。普段奔放なフィロリアル達もメルティの言うことは聞くし、キールやウィンディアも彼女らなりに女王に敬意を払っている。
トントン
扉がノックされ「失礼します」真緒が入ってきた。走ってきたのか、僅かに息を弾ませている。ドレスから二部式の着物に着替えたためか、身体の厚みが増したように見えた。肩にかけた大き目のオープンバッグの中に、何やら色々詰め込まれているのが見て取れる。
「お待たせしました。お夕食の時間まで、お伴させていただきますね」
息を整えながら、卓袱台の前で正座する。合わせるようにお姉さんチームとメルティ、それに真緒が戻って来た事に気付いたウィンディアが卓を囲む。ラフタリアは真緒の横に膝立ちで屈みこみ、言い辛そうに話しかけた。
「あの… マオ様。先程案内をお願いしたのは、その、決してそちらを信用していないからでは無くて」
「大丈夫ですよ、神様。先程も申しましたが、私は国の代表からは引いた身ですから。それに… 私もご一緒できるのが嬉しいです」
真緒は手を胸元に添えて心底嬉しそうに微笑む。誰もが蕩けそうなその笑顔に、ラフタリアの不安も一瞬で霧散する。
「さて」
真緒は卓を囲む一同を見回し、ウィンディアを見て固まった。不思議そうな顔で見つめ返すウィンディア。暫し額に手を当てて俯いた真緒は、ついと顔を上げ、再びウィンディアそしてサディナを見て尋ねる。
「こちらの大陸に着いてから、龍脈法やリベレーションをお使いになりましたか?」
ウィンディアは無言でかぶりを振り、サディナは腕組みをして首を傾げつつ「試してないわねー」と答える。
「お聞きしようと思って忘れておりました。多分使えないと思いますので、念のためにご確認いただけますか?」
二人はそれぞれ精神の集中に入るが、すぐに眉根を寄せて肩をすくめる。
「ほんとだ」
「詠唱が導かれないわねー 式の構築までは出来ているのに不思議だわ」
「ありがとうございます。 ちょっと失礼しますね」
真緒は正座の姿勢のまま身体を横に向けて、視界の右下で指を躍らせる。
それからこめかみの辺りに指先を当てて、独り言を言い始めた。
「今、皆様と一緒にいますか?
――そう、よかった。男性勇者の皆様にお伝えして欲しいことがあります。龍脈法とリベレーションは使えないとお伝えください。
――ええ、向こうの大陸で魔導が使えないのと同じ理由でしょう。
――いえ、盾の神様はそういう次元の存在ではありませんから。
――皆が貴方のように大雑把な人ばかりとは限らないのですよ。
では、お願いします」
軽いため息と共に皆の方に向き直り、「失礼いたしました」と頭を垂れる。
「向こうだと魔導が使えないんですか?」
「ええ、私は試せていませんが、先遣であちらの大陸に渡った者の報告では、全く使えないそうです」
「龍脈法も魔導も外気を利用した、土地や環境に依存するものでしょ?
ローカルルールが在って当然じゃないかしら」
「そうかも知れませんが…
何れにしましても、ここでは龍脈法とリベレーションは使えない旨、念頭に置きくだいさいませ。緊急の時ほど、慣れ親しんだ魔法や技に頼ってしまうものですから」
何故か外で花火が撃ち上がり、フィロリアル達が喝采する。
真緒はそれを一瞥した後、ウィンディアの方を向いた。
「それから、ウィンディア様」
「なに?」
「竜帝ガエリオン様をこちらにお呼びすることは出来ませんか?」
「一緒に来たかったけど、盾の勇者が『相手を威圧するから駄目だ』って」
「そうですか、お気遣い感謝いたします。
ですがポータルでの移動なら、ここは山奥ですし問題ありません。私も竜帝様にお聞きしたいことがございますので、こちらにお呼びするための段取りについて後程お話させていただけますか?」
嬉しそうに何度も頷くウィンディア。同じく顔を綻ばせた真緒は、ふと思いついたように立ち上がるとバルコニーの方に向かう。何やらはしゃいでいるフィロリアル達とキール(どうやら飛べるフィーロにぶら下がって、下の男部屋を覗いているらしい)に一言二言声をかけ、七輪にかけられていた鉄瓶を持って戻ってきた。お茶の準備をする真緒の慣れた手つきと楽しげな表情を、一同は無言で見入る。そして卓についた全員(忘れがちだがメルティお付の影の分も)にお茶が行き渡ると、真緒は自分の湯呑に口を付けてから、これからの行動について水を向けた。
「さて、どうしましょうか?
日が沈むまでは、女性のお風呂は上の露天風呂です。今は晴れていますが、山の天気は変わりやすいので今の内に行くのをお勧めします」
「では、皆で行くか」
「お酒はある?」
「サディナお姉さん」
「勿論、ご用意していますよ」
「こんなに大勢で行っても大丈夫でしょうか?」
「露天風呂は広いので大丈夫です」
「はい、みんな集合ーっ お風呂いくよ!」
「では皆さん、着替えをお持ちください。こちらにご用意させていただいた浴衣をお使いいただいても構いません。着方は後ほど説明いたしますので、ご自分に合う浴衣を選んでくださいね」
真緒は部屋の壁棚に収められた浴衣や帯を示した。横には手拭いが積まれた籠も置かれている。興味津々の様子で浴衣を選び始める女達。
「サディナ様は… 合うサイズの浴衣がありませんね。後で準備させますので、申し訳ありませんが今は亜人の姿の方で合わせていただけますか?」「…本当に何でも知ってるのねぇ、マオちゃんは。
わかったわ」
常時サカマタ種の獣人の姿でいるサディナが、亜人態も取れることを知っている者はメルロマルクにも少ない。油断ならぬといった目で真緒を見据えたサディナは、感心とも溜息ともつかぬ息をつき一番大きい浴衣を手にする。女勇者達は意気揚々と部屋を出ると、慣れない草履に苦労しながら露天風呂へと続く階段を上っていった。

時は僅かに遡り、真緒が慌てて着物に着替えている頃の男部屋。
「なぁ神様、いい加減、機嫌を直してくれよ」
ロックが尚文に向かって機嫌を取っていた。自分の機嫌をとる、というのも妙な話だが。
ロックは賛成多数で同室を許可されていた。唯一反対した尚文は、ロックの顔が視界に入らないように彼の背後に回り、そっぽを向いている。ロックは畳の上で胡坐をかいたまま後ろ手をつき、仰け反るように後ろの尚文を見て語りかけていた。
卓袱台を囲むように錬と樹は座布団、ルージュは座椅子の上で胡坐をかき、先程出て行った案内の女が淹れたお茶をすすっている。元康とみどりは窓の外に時折現れるフィロリアル達に黄色い声を飛ばし、フォウルは部屋の入口近くの柱に座って背もたれたまま辺りの様子を伺っている。
尚文は片手を腰に当て、もう一方の手で頭を掻きながら言った。
「別に怒っているわけじゃない。只、不愉快だから視線を合わせないようにしているだけだ。気にするな。
あと神様呼び止めろ」
「あっそ」
樹と錬、ルージュは、そんなやり取りをする二人を改めて見比べた。尚文は元々小太りなガッチリとした体格だが、ロックの身体は一回り大きく、さらにマッチョな感じだ。尚文のような険のある目付きではないが、耳の後ろに混じる白髪のためか、年齢以上に大人びて見える。
「ロック殿、一つ伺いたい事があるのじゃが?」
「一つといわず、何でも聞いていいぜ。俺が払える対価なんて、そのくらいなんだから」
「ロック殿の現在の立ち位置を教えていただきたく」
「俺は魔王の側近、いやそんな格好がいいもんじゃないな。ボディガードってとこかな。魔王の国では軍属だったけど、あ、御免、チョイ待ち」
不意に横を向いて独り言を言い始めるロック。
「何用でしょうか、親愛なる我が主よ。
――ああ、許可はもらえて、今は全員部屋にいる。
――龍脈法とりべれーしょん? それって、ハーキムが言ってた…
――それ、全員が対象? 神様でも駄目?
――んじゃ別に気にしなくても
――あ、ちょっと! …切りやんの」
落胆を露にするロックに、錬が問いかける。
「話は聞こえたが、龍脈法とリベレーションがどうした?」
「ああ、ここでは龍脈法とリベレーションが使えないらしい。こっちの魔導もそっちの大陸に行くと使えないらしいし、何か制限があるみたいだな」
ロックの言葉にリベレーションを唱えようとする勇者達。
「本当だ」
「普通の魔法は使えますぞ。アル・ドライファ・ファイアフラワー!」
元康が開いた窓越しに空に向けて大きな魔法の花火を打ち上げる。
「元康! 派手な行動は慎め!」
「確かめるにしても、もう少し地味な魔法は無かったんですか?」
「む、それもそうですな。ファイアフラッシャーにしておきましょう」
「もう手遅れだろ… 騒ぎにならなきゃいいが」
元康を嗜める錬と樹。気にするなとばかりに手をぷらぷらさせて、ロックがとりなす。
「魔王の周囲で爆発騒ぎは日常茶飯事だから大丈夫だ。まぁ、魔法に関する詳しい事は真緒に聞いてくれ。俺はそっちには疎くてな。
で、何だっけ? ああ、今の俺の立場だったな。前は魔王様の近衛みたいな事をやってたんだけど、真緒がトップを降りちまったんで、俺も無事退役って感じ? あ、でもまだ肩書きは残っているんだったか」
「もし叶うなら、今後もマオウの眷属として生きたいとお思いかな?」
「もし、ね。大体、真緒がこの後どうなるかも分らないのに、将来の展望なんて出来ないな。その時が来たら考えるよ」
「そうか、真緒も水晶の勇者だからな。元の世界に戻るかもしれないのか」
「ああ、それで国の体制を変えたんですね? 王政のまま王が居なくなったら国が混乱すると」
「まぁ真緒のことだから、それだけじゃないとは思うが。
魔王様の考えの全てまでは把握しかねるよ。頭の出来が違うからな」
「マオ殿の承諾が得られたら、我が国に来るつもりはありませんかな?」
「おい、クズ」
語気を荒げる尚文を無視して、ルージュは続ける。
「我がメルロマルクとしては、貴殿を迎え入れる用意がありますが」
「どういうつもりだ?」
「イワタニ殿は我が国の大公、重鎮であらせられる。しかしながら公の儀礼の類には殆ど出席いただけない。これには内外からかなりの不満の声がありましてな。もしロック殿がイワタニ殿の代理や影武者を勤めていただけるのであれば」
「却下、不許可だ」
言葉短く切って捨てる尚文。ロックも肩を竦めながら言った。
「悪いな、俺もそっちの大陸に興味はあるが、宮勤めしたいとは思わない。
それに盾の勇者に成りすますのは、正直もう御免だ」
「残念ですな。であるならば、イワタニ殿にはより一層の公儀へのご出席をいただきたく」
「なんだ、俺は神様への苦情のダシにされたってことか?」
苦笑するロック。不機嫌そうな尚文を残し、男達の笑い声が弾けた。

階段を上り切り、狭い廊下を突き当りまで進むと、真緒は正面の引き違い戸を開けた。独特の臭気と湿気を帯びた空気が漂ってくる。
「こちらが露天風呂の脱衣所です。ここで草履を脱いでください」
脱衣所の中は、天井のフロストガラスがはめ込まれた窓と魔法の間接照明がふんだんに使われていて、明るく開放感がある。
入口の正面に下足入れ、左右を通って裏面には三段の棚が三列に並ぶように設えてあり、棚には沢山の籠が置かれている。真緒はその一つを手に取り、皆に見せた。
「これは行李と言って、着替えや持ち物を入れておく籠です。脱いだ衣類もこの中に入れてください。一番上に着替えを乗せておくといいですよ」
そう言いながら、自分の着ていた着物や下に着ていた襦袢や補正着、下着を脱いで、行李の中に入れていく。
ほぉぉ…
ため息のような感嘆の声が一同から漏れる。真緒はその視線が自分の身体に注がれているのに気付き、「な、なんですか?」と言いながら身を捩る。
「超細っせえなぁ、水晶の姉ちゃん」
並幅の手拭いで隠せてしまうほど細い肢体と薄象牙の肌。ラフタリアの引き締まったメリハリのある身体とは違い、限りなく肉置きが薄い。胸周りや腰周りの肉付きは痩せぎすのリーシアと良い勝負か、さらに貧相。日本人女性にしては長身故、余計に痩躯が際立つ。感動の裏側に不安感が透けて見えるような、果無く幽玄な美がそこにあった。
余談になるが、後に真緒に対する女性陣の感想(メルティ「お母様に似てると思ったけど違った」、エクレール「レイピアのようだった」、リーシア「天使みたい」、ウィンディア「お父さんそっくり」、フィーロ「んー… 虫みたい?」)を聞いた男性陣は、大層悩んだらしい。
一方、悪意のないキールの「超細い」という言葉にショックを受けた真緒。
何とか見られる程度には肉が付いてきた、という自信が崩れていく。
「こ、ここではその名を口にしないように、と申しましたよね?」
胸元で手拭いを握り締めつつキール、そして皆を見つめ返す。
「ご、ごめんなさい」
良くわからない魔王の圧に負け、視線を逸らして服を脱ぎ始めるキールと女勇者達。真緒はそれに満足したかのように短く息を吐き、結い上げた髪から簪を抜いて、頭を振って解き下ろした。黒絹のマントの如く細腰の下まで広がった髪を手早く捻ってまとめて、肩越しに前に垂らす。
そして服を脱いでいるラフタリアの姿を、煙水晶の大きな眼鏡越しにちらっと見やる。
『やっぱり綺麗だな、神様』
暫時ぼーっと見惚れていた真緒に
「はやく温泉入ろ?」
いつの間にか正面に全裸のウィンディアが立ち、こちらを見上げていた。
「御免なさい、ウィンディア様。 長い船旅でお疲れですものね」
腰を屈めてウィンディアに目の高さを合わせてからそう謝ると、露天風呂へと続く扉の前に移動する。
「床が濡れていますので、足元に気をつけてくださいね」
注意してから滑り戸を開いた。
「ふわぁ…」
 「広ーい」
脱衣場の位置はかなり高い位置にあり、露天風呂の様子が一望できた。
渓谷に突き出した中央が落ち窪んだ岩場、そこに温泉が湧き出しているのが見て取れる。階段状になった岩を下っていった先で、右手の壁面から垂水が数箇所シャワーのように湯煙を放っている。左手には岩風呂が階層になり、水時計よろしく上から溢れた湯が下の槽に注がれていた。一番上の槽は渓谷に最も張り出した位置で見晴らしがよく、一番下の槽はかなり広い。中央は少し高くなっていて、岩盤浴ができそうな平らな岩が置かれていた。
「岩風呂は上の方が熱くて、下の方が温いです。上り下りする時には足場に注意してくださいね。後、この露天風呂全体が渓谷にせり出している場所ですから、誤って落ちたりしないように」
真緒の説明と忠告が終わらない内に、フィロリアル達が次々と鳥の姿になって飛び出していく。釣られてキールも犬の姿で駆け出した。メルティが慌ててフィーロの後を追う。残った面々は階段状の岩からそれを見下ろしていたが、サディナが思いついたように真緒を振り返った。
「マオちゃん、お酒は?」
「あ、取ってきますね。先に入っていてください」
脱衣所に取って返した真緒を見送り、お姉さんチームの面々は右手の打たせ湯で一列に並んで身体を清める。そして岩風呂の方、先ずは一番上の湯へと向かった。リーシアが足先を入れただけで退散し、エクレールとラフタリアも肩まで浸かった後に飛び出して行った。サディナのみが悠々寛いでいる。いや、例によって出し抜けに現れたラフちゃんが湯の中から顔を出した。
そこに手拭いを身体に巻きつけた真緒が、大きな箱を両手でかかえてやってきた。砕氷を敷いた箱の中には二合ほどの大きさの徳利が六本入っており、その上に猪口を二つ乗せた木桶が置かれている。かなりの重量がありそうに見えたが、真緒は軽々と運び、岩の横に置いた。徳利と猪口を乗せた木桶をサディナの前に浮かべる。
「お待たせしました、サディナ様」
「あらー、木桶付きだなんて気が利いてるわねぇ。ありがとうマオちゃん」
「どういたしまして。そこの箱の中に徳利が入っています。ガラス瓶の方はお水が入っていますから、そちらも合わせてご利用ください」
真緒は笑顔で答えると、振り返って周囲を見回した。ちっちゃい者チームは一番下の広い岩風呂が気に入ったらしく、はしゃいでいる。メルティが見ているので安心だろうと判断して、自らは身体と髪を洗いに降りていく。
一方、一番上の岩風呂から脱落したリーシアとエクレール、ラフタリアは共に中層の岩風呂に浸かっていた。程よい湯温に美女三人がほんのりと上気した顔をしている様は、なんとも色っぽい。
「一番上のお風呂、熱すぎです」
「あれに平気で入っているサディナ殿は、化け物だな」
「ラフちゃんもですよ」
「まぁ、ここからの見晴らしも十分に素晴らしいからな」
「温泉は寛げるのが一番ですよ」
「やっぱり、ここがちょうどいいですか?」
「あ、マオ様」
ターバン状に頭に手拭いを巻いた真緒が、瓶を詰めた箱を持って現れた。
リーシアの言葉に困った顔をしつつ、岩の傍に箱を置く。
「様付けは止めてください、リーシア様」
「だって、マオ様は聖武器の勇者ですから、眷属器より偉いんです」
何故か偉そうに胸を張るリーシア。真緒は眉を曇らせつつ岩風呂に腰掛け、足を湯につける。
「武器の格で勇者の上下関係を決めるのは望ましくありませんよ」
「先ずはマオ殿から止めないといけないんじゃないか?」
エクレールがリーシアに助勢する。悪戯っぽい流し目が艶やかだ。
「今回、私は接待する立場ですから…」
「マオ様が止めたら、私もやめます」
「はぁ… でも公式の場では様付けで呼びますからね、リーシアさん」
「わかりました、マオさん」
真緒は観念したように肩を落とし、岩風呂の湯に身体を滑り込ませる。
「マオさん、眼鏡をしたままだと危なくないですか?」
「大丈夫… きゃっ」
足を滑らせた真緒の手をラフタリアが素早く握り支えた。
時間にすれば僅か一刹那、それが二人の初接触。その一瞬で二人は会話ではなく認識という手段で膨大な情報を交わす。
そして本来ならあるべき自他の境界が酷く薄い事に恐怖した。
どちらとも無く弾かれるように手を離す二人。真緒は湯の中にへたり込み、ラフタリアは両手を抱え込むように背を丸くする。二人は呆然としながら、それでも互いの目を離さずに見合う。
「大丈夫か? 二人とも」
「あ、ゴメンなさい、今のは私が手を離してしまったから… 大丈夫です。
ありがとうございます。 神様」
エクレールの声に我に返った真緒は、膝立ちの状態になって両手をひらひらと振って無事な様子を見せた後、ラフタリアに向かって頭を下げる。
「やっぱり危ないですよ、眼鏡外しましょうよぉ」
「…ひょっとして、眼が赤いのを気にして、ですか?」
膝立ちの状態だったラフタリアが横座りの姿勢になりながら真緒に尋ねる。
「気味が悪いじゃないですか、赤い眼なんて…」
ラフタリアと同じように横座りをしながら答えた後、自己嫌悪から目を伏せて鼻の下辺りまで湯に沈み込む真緒。
リーシアは湯の中をまるで魚のような滑らかな動きで真緒の正面に回り込むと、煙水晶の眼鏡に両手をかけて、鼻の辺りまで引き下げた。露わになった真紅の輝く双眸が、リーシアを驚きと若干の怯えと共に見つめる。
「気味が悪くなんて無いですよ。マオさんの眼は綺麗です。
眼だけじゃなくて全部ですけど」
「リーシアさん… ありがとう」
キラキラした碧い瞳を目一杯開いて訴えかけるリーシアに、真緒の目も同じ様に大きく見開かれた後、相好を崩した。
「リーシアのああいうところ、凄いよな」
「ええ、本当に」
「ところでマオ殿、さっき運んできた箱は酒か? ここではなくサディナ殿のところに持っていった方がいいと思うが」
「あ、いえ、あれはお水です。長湯をする時は水分を取らないと」
「あー嬉しい! 喉渇いたなって思ってたんですよぉ」
リーシアは湯から上がって、箱から冷水の入った瓶を四本取り出すと、全員に配る。笑顔で乾杯する娘達。そこに上から声がかけられる。
「マオちゃーん、お酒もう無いの?」
「え? そこにあった徳利もう全部飲んでしまったんですか?」
「これが最後かしらー?」
「サディナお姉さん、飲み過ぎです」
「まだ夕食前なんだ、程々にしておけ」
「ここは景色もお酒も最高ねー」
「らふー」
「もう出来上がって聞こえてないみたいですねぇ」
美女四人は顔を見合わせて、大きく笑った。

「お義父さん」
今まで窓から半分身を乗り出していた元康が振り向き、尚文に話しかけた。
「私はこの人を何と呼べばよいですかな?」
「知るか。ロックでいいんじゃないか?」
「では、ロック。聞きたいことがありますぞ」
「なんだい? 元康君」
「こちらの大陸にはフィロリアルはおりますかな?」
「ふぃろりある?」
「あ、ロックさん、忘れていいです。無視してください」
「フィロリアルとは此の世に生まれし天使。最も高貴にして愛らしく、さらに有能にして有用な魔物ですぞ。ここにいるみどりもフィロリアル、勇者が育てた場合に得られる力で人の姿をしておりますが、鳥のような姿にもなれますぞ。魔物の国というからにはさぞかし素晴らしいフィロリアルがいると思っていたのですが、おりませんかな?」
「無茶言うな。 フィロリアルは勇者が人為的に作った魔物だぞ?」
「うーん、思い当たる種族は無いなぁ… 人に化けられる魔物は多いけど」
「ふむ、そうですか。残念ですぞ。フィロリアルがいるならば、友好が結ばれるのも早いかと思ったのですが」
「そうか、じゃあ友好を深めるために風呂に行くか」
「ロックと友好を深めてもなぁ」
「ワシとしては、是非温泉に浸かりたいですな。久々の長旅で流石にくたびれ申した」
「俺も友好とか親睦は別にして風呂入りたい」
「んじゃ、行こうぜ。あ、浴衣と帯はそこな」
「ユカタ?」
「バスローブみたいなもんだ。ま、無理して着なくてもいいぜ」
「この際なので、魔物の文化を存分に堪能しますかの」
「これって魔物文化じゃないよな?」
こうして男達も一階の風呂に向かった。無論、望まれない男湯の詳細な描写をするつもりは無い。

湯上りの女勇者達は脱衣所に戻ってきた。皆一様に身体から湯気を立てて、上気した顔をしている。
真緒はコルセットのような補正着を手早く纏い、持ってきたオープンバッグの中をゴソゴソとかき回して幾つかの保湿水や天花粉を取り出すと、皆への説明がてら自分に使って見せた。特にお姉さんチームの面子プラスお付の影は興味津々といった様子だ。
「じゃあ、お姉さんチームは私が浴衣の着方を教えるわね。マオちゃんは、ちっちゃい者チームを見てもらえるかしら?」
サディナはそう言いつつ、滅多に見せない亜人の姿に変化した。波打つ豊かな黒髪が美しい。
「はい、承りました。こちらのさらしや綿入れは自由にお使いください」
メルティがちっちゃい者チームを集合させ待機していた。フィロリアル達は皆幼女の姿に変化している。『まるで小学校の先生になった気分』と真緒は心の中で呟く。
用意した浴衣は基本的には日本の物と同じだが、尻尾を出すためのスリットが設けられているなど、亜人や獣人も着られるように改良が施されている。
真緒は実際に浴衣を着て見せながら、ちっちゃい者チームの面々の着付けを手伝った。
「フィーロね、魔物の姿になった時に破れる服はやだ」
他のフィロリアル達も頷いている。
「ふふ、大丈夫ですよ。これは、魔物でも着られるように作った特製の浴衣なんですから。試しに元の姿に戻ってみてください。天井に頭をぶつけないように気をつけて」
「ほんとに大丈夫かなー、ていっ」
ボフンという音と共にフィーロが魔物の姿になる。おおーというどよめき。
「あれ? さっきの服どこいった?」
「右手にお持ちですよ」
「あ、あった。 凄ーい、勝手に脱げるんだ」
フィーロは感心して人型に戻る。
「? 脱げたままだよ?」
「そこまではできませんね。もう一度着ていただく必要があります」
「ふーん、やっぱりごしゅじんさまの服の方がいいね」
「そうだね、もーくんの服が一番だよね」
「でもこれも悪くないね。気分を変えて他の服を着るのもいいかもね」
もう一度着直しのフィーロや苦戦しているキールの着付けを手伝い、涼しくなるように髪の毛をまとめたり、アップにしたり。リクエストに答える内に、ちっちゃい者チームの面々は真緒に懐いてきたようだ。
「はい、それでは皆さん、忘れ物はありませんか? 大丈夫なら、メルティ様に続いてお部屋に戻ってくださいね。
それではメルティ様、お願いいたします。直ぐに追いますので」
入口まで見送って、額の汗を拭う真緒。その背中に向かって突進する二つの人物あり。
「マオさん!」
「どうされました? …まぁ、随分と艶やかな着こなしですねぇ」
駆け寄ってきた二人、エクレールとリーシアの姿は実に色っぽい。どれだけおはしょりを取ったのか判らないほど短くなった丈から覗く伸びやかな脚。衣紋を抜き過ぎて鎖骨から胸の谷間まで見えてしまっている衿元等々。
「違う! サディナ殿に教わったらこうなってしまったんだ」
「そうです! 私はマオさんみたいな感じに着たいんですっ」
「それはそれで悦ぶ殿方がいらっしゃると思いますが… まぁ、そう仰るのであれば」
真緒は何本かのさらしと綿入れ、腰紐を手に、二人の周りを回って見る。
「お二人とも細いですねぇ。補正しますので、一旦帯を解いてください。
エクレール様は胸回りを軽く潰します。苦しかったら言ってくださいね。
リーシアさんは腰回りが薄いので、この綿入れで補正してから、さらしを巻きます。お腹回りが厚くなりますが、着崩れし難くなります」
綿入れと折り畳んださらしで厚みを調整しながら、テキパキと腰紐を絞めていく。
「浴衣を着ると、腰を捻る動作や前にかがむ動作が難しくなります。上体はなるべくそのまま、膝を使って動くように心掛けてくださいね」
「確かに動き辛いですねぇ、でも苦しくは無いです」
「背筋が伸びて、気持ちがいい感じもするな」
半幅帯をリーシアは蝶結び、エクレールは一文字に結う。
「エクレール様の髪の上げ方、素敵ですねぇ」
「そ、そうか? 普段から軍装の時はこうして纏めているんだが」
「ああ、それで潰し気味なんですね。まだ髪が濡れてますから、乾かすためにも少し緩めにして、ボリュームを出してみましょうか。纏める位置も少し上にして、こんな感じでどうでしょう?」
「うわぁ… エクレールさん、普段よりも可愛い感じになりました」
「リーシアさんも結んでいる左右を真ん中で合わせて、その中に後れ毛を纏めて入れると、首筋が見えて涼しい感じになりますよ。こんな感じでどうですか?」
「うむ、随分大人っぽくなったな、リーシア」
姿見に映る姿を見ながらはしゃぐ二人を嬉しそうに眺めていた真緒は、ふと気付いたように
「エクレール様、リーシアさん。先にお部屋に戻っていただけますか?
メルティ様が、お一人で苦労されているはずです。私もサディナ様と神様を連れて、すぐに戻りますので」
と言った。
「そうだな。リーシア、行こう」
「はい。マオさん、ありがとうございました」
丁寧にお辞儀をするリーシアにお辞儀を返し、見送る真緒。
「さて」
再びさらしと綿入れ、腰紐を手に取り、袂に入れると、ラフタリア達の声がする方に向かう。脱衣所の一番奥の棚の向こうから喧騒が聞こえる。
「神様、サディナ様、お着替えはお済みで――」
真緒の視界に飛び込んできたのは、格闘ゲームよろしく二人の女性が向かい合って対峙する姿。右側にいた亜人姿のサディナが両手を前に構えて、指をイヤらしくワキワキさせている。左側にいるラフタリアは、浴衣の襟を掻き抱くように身を硬くしてサディナを睨みつけている。胸元から転び出そうなものを懸命に隠す姿は、先程のエクレールよりもさらに婀娜やかだ。
想像以上に緊迫した状況に真緒が言葉を失った刹那、ラフタリアが真緒の腕を引き寄せる。
「わかりますか!? こう、きちっと綺麗に着た姿がいいんです、私は!」
一見、真緒を盾にしているようにも見える。
「あらー、それじゃあナオフミちゃんは落とせないわよ? もっと扇情的に色っぽく。今回の旅行でバッチリ決めてもらわないと! 何時まで経っても私の番が回ってこないじゃない?」
「確かに神様の艶姿、女の私でもそそられますが、盾の神様が相手では逆効果では無いでしょうか?」
真緒はサディナの方に向いたまま、左肩を掴むラフタリアの手にそっと自分の左手を添えた。今度は自我の境界を強く意識して、自身の手に精神を編み込むようにする。ラフタリアの手がびくっと跳ねる、が離れなかった。
さっきのような恐怖感は無い。
『うん、大丈夫』
真緒は安心して手を離すと、サディナを穏やかに諌止する。
「サディナ様、神様を困らせるのが楽しいのはとても分かりますが、この後の宴席もございますし、この辺りにしませんか?」
柔らかく微笑む真緒から得体の知れない威圧感を感じ、サディナは話の矛先を変える必要を覚えた。肘から先だけを上に上げ、小さく降参のポーズを取りながら、ゆっくりと真緒に近づく。対照的にラフタリアは真緒に絡ませていた腕を解いて、少し距離を取った。
「そうね、この旅行はまだまだ始まったばかり。お楽しみの機会はこの先にもあるでしょうし、それよりも」
そう言いながら、サディナは真緒の両肩を掴む。亜人形態であっても、彼女の身長はラフタリアや真緒よりも頭半分ほど高い。
「マオちゃんが何を隠しているのか、お姉さんは気になるなー」
見下ろしながら顔を近づけて小声で囁くサディナの言葉を理解できなかったのか、真緒は軽く首を傾げる。
「マオちゃんの身体、魔力の流れを隠蔽しているでしょ。しかも幻覚で普通の流れに見せている。なんでかなー?」
ようやく理解した真緒は頷きながら感嘆する。
「よく判りましたね、サディナ様」
「私には判らなかったわ。気付いたのはラフタリアちゃんよ」
「隠していたつもりは無いんですが、これは習慣というか魔王の習性と申しますか… 解除しますね」
「な…っ」
サディナは絶句し、ラフタリアも息を呑んだ。
真緒の身体に絶え間なく流れ込んでくる膨大な魔力が、瞬く間に制御され、細かく分岐し、処理されていく。さながら巨大な集積回路上の電気の流れが見えているようなものだ。
「お分かりでしょう? これが見えていると眼がチカチカして、眠ることも出来なくなってしまううので」
「貴女… 本当に、それ… いえ、何でもないわ」
『魔王』という力の次元も理も異にする存在を目の当たりにして、サディナは呆然と数歩よろめくように後ずさった。青ざめた顔を振りながら、後ろを向いて去っていく。後ろにいるラフタリアからは、真緒の表情を伺うことが出来ない。
真緒は再び魔力を隠蔽すると、分からないくらい小さな嘆息と共に、僅かに肩を落とした。
「…マオさん」
溜息を付いたのをラフタリアに気付かれたと思ったのだろう。真緒は横目でラフタリアを振り向き、バツの悪そうな顔でペロッと舌を出した。そして、気を取り直したかのように快活な動作で正面を向いて、両手を合わせる。
「ささ、お直ししましょう。その格好も捨て難いですけど、流石に殿方には刺激が強すぎですね」
ニコニコしながら、袂からさらしや腰紐を取り出す。
「神様のお身体、素敵ですねぇ。細いのに出るところは出ていて。補正して体形を目立たなくしてしまうには勿体無いですねぇ」
「あの…マオさん…」
「でも、このなで肩のラインと伸びた背筋は浴衣映えするし、このうなじの美しさといったら」
楽しげにラフタリアの周りを纏わり付きながら、ハイテンションで着付けをする真緒。ラフタリアは呼びかける声音を強める。
「マオさん」
「はっ 我を忘れておりました。何でしょうか、神様」
「何で、私を神様と?」
「本当は女神様とお呼びするべきなんでしょうけれど、それだとメディアを連想して、お嫌かなって」
「そうでは無くて」
「普通の人では無い事を突きつけられているようで辛い、ですか?」
「っ…」
軽やかな声音から一転、氷のような冷たさと重さを持った真緒の言葉が胸に差し込まれたように息を飲むラフタリア。
「勇者は普通の人とは違います。同様に神様も普通の勇者とは違います。
この現実を直視して受け止めなければ、周りまで不幸にしてしまいます」
真緒はラフタリアと視線を合わせず、ラフタリアの着付けをしながら言葉を継いでいく。ゆっくりとした少し低く優しい声音。だが、そこに込められた思いの真摯に、ラフタリアは言葉を挟むことができない。
「この世界は… 仕組みから歪んでいます。世界の危機に際して、住人にはそれに対峙する力を制限し、精霊が異世界から勇者を召還して、それに当たらせる。当然、人々は勇者を神として崇め、信仰するようになる。自己実現を抑制し他力本願を助長する、まさに人を腐らせる仕組みです。
そんな中で、神様が亜人、この世界の住人でありながら世界の代行者たる力を得たのは、この世界の人々、いえ世界そのものにとっても大きな意味があると思っています」
真緒は着付けを終え、煙水晶の眼鏡を外しててアメジストのブレスレットに変える。そしてラフタリアの正面に立ち、真っ直ぐに眼を見た。二人の身長はほぼ同じ。傍目には殆ど変わらないが、僅かにラフタリアの方が高いか。それでも真緒の方が幾分頭が小さいため、目線は殆ど同じ高さになる。真緒は眩しげに眼を細めている。
「でもそれ以上に、私が神様と呼ぶのはこの世界を救ってくださったから。
どれほどのお礼を述べれば良いのか、わかりません。水晶の勇者の力でも、魔王の力を得ても、私にはこの世界を救うことが出来なかった。それどころか、生き延びるために多くの命を盾として利用して… 神様達から見れば、断罪されるべき存在です」
微笑んでいるのに泣いているようにも見える表情。懺悔をするように、両手を胸の前で握り締めている。ラフタリアはその手を上から包み込むように両手で握り、言った。
「マオさんは裁かれることを望んで、私のことを神と呼ぶのですか?
貴女にとって私は断罪の神なんですか?」
目の前のラフタリアの大きな瞳が涙で揺らぐ。握り締めた手を通して、感情までが伝わってくる。
真緒は知っていた。目の前にいる亜人の娘の本来の年齢は、外見よりもずっと幼いということを。
真緒は先程知った。ラフタリアの中に二つの魂が溶け合い、支えあっていることを。
そして、真緒は理解していた。世界の代行者としてのラフタリアの役割は、本来は自分が担うはずのものだった、と。
「今なら判ります。貴女は私。私が私になるのに必要な人。
私には貴女の助けが必要です。私は貴女を断罪する事を拒絶します。貴女に咎があるならば私もそれを負いましょう。
それでも未だ私の事を神と呼ぶのなら」
ラフタリアと真緒の額が触れ合わんばかりの距離に近づく。ラフタリアの瞳が神気を帯び、凛とした表情で宣する。
「貴女の神として最初で最後の命です。
私を神と呼ぶことを禁じます。
――お願いですから、友として傍にいて、ください」
最後には縋りつくような表情となり、声を搾り出すラフタリア。真緒の目は大きく見開かれ、涙を湛える。ついには左目から一筋流れ落ちた。
「――御心のままに。
では、ラフタリアさん。髪を結うので、こちらに来てください」
自らの手を握るラフタリアの手を恭しく掲げ、軽く自分の額に捺し当てた後、真緒は晴れやかに笑い、ラフタリアを姿見の前に誘った。
「ええ」
笑みを交わし手を取り合う二人の姿を棚の上から見届けていたラフちゃんは、満足げに飛び跳ねながら消えていった。

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