denken 「思う」と dünken 「思われる」~「態」の咄
みなさん、こんにちは。
Yamayoyamです。
以前ピンク色の投稿で呟いたのですが(↓)、
満を持して(?)denken 「思う」とdünken「思われる」について書いてみたいと思います。
dünken「思われる」はスイスドイツ語で用いられることの多い言葉。
ドイツ語学習をされた方なら、「aus|sehen」や「scheinen」を代わりに習っていると思います。というか「aus|sehen」や「scheinen」が標準ドイツ語で対応する表現です。
例によって家庭内インフォーマントと晩酌中に、こんなラブラドライト(註:私の好きな半貴石)みたいな言葉を習ったのでした。
これの何が良いって、分離前綴りが無いところ!
「aus|sehen」と「dünken」を使った例文を比べてみましょう(参考に「scheinen」も)。
どれも「それ良いと思う」という意味ですが、「aus|sehen」には分離前綴りという小さなデビルが付いています。「aus」のことです。
定動詞の位置で「aus」を除いて「sieht」と言った後、文末で忘れずに「aus」を言わなければならないという、私の哀れなワーキングメモリーに挑む単語です。
でも「dünken」にはそんなもの付いてませんから、ワーキングメモリーへの負担がグッと軽くなります(大袈裟)。
わたくしイチオシの単語です!
唯一注意しなければならないのは、「私にとって」を対格「mich」で言わないといけないところ。
うっかり「mir」と言わないように。
因みに、「~に聞こえる」の動詞にもスイスドイツ語独特の言い回しがあります。
「tönen」と言います。標準ドイツ語では「sich an|hören」あるいは「klingen」と言います。
「sich an|hören」は再帰形と小さなデビルのコンボ。「聞いて分かる」を目指すようにしています。
何か意見やアイデアを聞いて、「それ良いね!」と反応するときに言ったりします。
こういう「思われる」「聞こえる」系に、スイスドイツ語独特な表現があるの、面白い。
そしてスイスドイツ語バージョンには小さなデビルが付いていない!
スイスドイツ語話者も小さなデビルがあんまり好きじゃなかったのかな?と勝手に親近感を覚えています。
ところで・・・、「dünken」と意味も響きも似た単語がドイツ語にあるんです。
思わせぶりに書きましたが、タイトルに書いてある「denken」のことです。
だいたい同じような意味ですが、主語に来るアイテムとニュアンスが違います。
「denken」の主語は考えたり思ったりする人です。
他方「dünken」の主語は非人称の「es」。その場の状況とか、頭にストックしてあった情報の集積などの、正体不詳の「es」です。考えたり思ったりする人は主語ではなくて、目的語になっています。
「これまでの経緯やら状況が、私をして~と考えるに至らしむ」みたいな、「客観的な意見」を装う言い方です。
見た目に関しては、母音が違うだけで他は一緒。
意味は「思う」と「思われる」。
能動的か、国語の時間に「自発」と呼んでいたアレかの違い。
国語の時間に習った「自発」をこの場に合わせてもうちょっと言語学的に言うと、middle-intransitive「中動態的・自動詞的」といった感じになります。
「中動態」という耳慣れない用語が出てきましたが・・・。
これ、とてもザックリ言うと、「能動態」と「受動態」の間みたいなニュアンスなんです。
能動態というと、主語が(対象に向かって)何かアクションをするという表現に使われる動詞の形。
日本語で典型的に「する、読む、・・・」系列の形になります。
受動態は、主語が(何か・誰かに)何かアクションをされる、被(こうむ)る、という意味で使われるときの動詞の形。日本語で典型的に「される、読まれる・・・」のように、受動の助動詞「レル・ラレル」を付けた形になります。
中動態というのは、
「主語がアクションを起こす!」のではなくて、「自然に生じてしまう」ことを表したり(生まれる・死ぬ・思い出される、など)、
何かアクションをするんだけど、自己完結型で何かに対してではなかったり(座る、横になる、起きる、目が覚める、など)、
自分自身に対してだったり(自分の髪を梳かす・服を着る、など)、
という、能動態とも受動態ともつかない内容を表す「態」です。
日本語では、こういった中動態的な意味は、動詞の活用の仕方で示すより、動詞の意味にそもそも含まれていたり、「国語の時間に習った自発のレル・ラレル」を付けた形で部分的にカバーするかな?といった感じです。
ただ、この「自発」と「受身」が同じ「れる・られる」でカバーされるのは、かなり示唆的だなと、今これを書きながら思っています。
ところが、私が勉強している印欧語の「態」のシステムはかなり違ったものだったんです。
「中動態」と受動態が一つの「中・受動態(medio-passive)」というカテゴリーを形成していて、それ専用の「中・受動態活用」というのがありました。
つまり、同じ活用語尾が「中動態」を意味することもあれば「受動態」の意味にもなることがあって、両者は「能動態でない」ほうの態として同じカテゴリーに入れられていた、ということ。
ヒッタイト語、古代サンスクリット語(ヴェーダ語)、ギリシャ語やトカラ語など、中・受動態の活用が使われているのを読むことができます。
でもウン千年経って、結局は失われてしまうのですよね。(※1)
一番古い状態で見つかるゲルマン語はゴート語と呼ばれる言語なんですけど、中・受動態の活用が中動態の意味を完全に失って、受動態専用になってます。
そしてその他のゲルマン諸語では中・受動態の活用はすっかりどっかへ行ってしまいました。
中動態がかつて表していたであろう意味は、「dünken」のように中動態のニュアンスがあるけど能動態で活用する動詞や、「sich+能動態活用」のような再帰形で表現されています。
バルト語でも似たような状況で、中・受動態は見る影もありません。
やはり同じように中動態のニュアンスだけど能動態活用の動詞や、「能動態+ -si」の再帰形で代用しています。
ただ、ですね!
この「中動態のニュアンスだけど能動態の動詞」というのが、ちょっと面白いんです。
中には「元中動態の動詞」が含まれているからです。
そして、「dünken」もそうだったんじゃないかな、と妄想しております。
最近よくお世話になるKroonenの語源辞典で「denken」と「dünken」を引くと、
と出てきます。
Lexikon der indogermanischen Verben というハードコアな語源辞典を更に引きますと、*teng-「思われる、~のように見える(非人称)」という語根が印欧祖語に再建されています。
こちらでもやはりゴート語 þugkjan は印欧祖語にまで遡ることのできる形と考えられていて、*tn̥g-yé- が再建されています。
でも残念ながらゴート語 þugkjan 自体は普通に能動態として活用していて、意味以外に中・受動態と結びつきそうな要素無し。
ただ、印欧祖語の再建形 *tn̥g-yé- が少々思わせぶりなのです。
この「ゼロ階梯の語根+アクセントのある接辞 -yé-」の組み合わせ、印欧祖語では中・受動態で活用して中動態の意味になる動詞によく見られるパターンなんですよ。
いくつか例を挙げると、
皆さんが思ったよりは少ないかもしれませんが、複数の印欧諸語に「同じ語根・同じ語形成・ほぼ同じ意味」で言葉が残ってるのが見つかるのは、けっこうな奇跡。
なので、これでも「けっこう見つかったね」という感じなんですけど、どうでしょう?
そして、このリストの最後に *tn̥g-yé-「思われる」がこないかな・・・?と妄想しているわけです。
きっとくるんじゃないかなと思うのですが、決定打となる証拠が無いために、妄想止まりです。
でも妄想は楽しい。
ブログには妄想を書いても許されるよね?
ということで、本日はここまでにしたいと思います。
Yamayoyam
※1 でもギリシャ語にはまだ残っています。素晴らしいです。
※2 印欧語比較言語学の用語です。印欧諸語にもその残滓がたくさんのこっているのですが、印欧祖語には「母音交代」があったと考えられています。名詞だったら性・数・格に従う格変化、動詞だったら人称・数に従う語形変化に伴って、アクセントのある接辞・語根や語尾の真ん中に -e- や -o- が現れたり(長くなることもあるのですが!)、逆にアクセントが無いと-e- や -o- が消えたりすることを指します。 そして
-e / o- のある形(*mer- やpekʷ-)を「標準階梯」、
-e / o- が消えている形(*mr̥- や *pₑkʷ-)を「ゼロ階梯」、
長い -ē / ō – があるの(*pēd-)を「延長階梯」
と呼びます。