ニューオーリンズの古傷が疼く
「ニューオーリンズの古傷が疼くぜ」
寒くなってきた折に、バーでバーボンを飲んでたりするとついそんなことを言いたくなる。昔どこかの映画か小説で見たようなセリフを、自嘲気味に言いたくなる。幸か不幸かそれを聞いてしまった人は「え、どう言うこと?」と質問してくれるだろう。そこからは俺のスベらないスベった話が長々と用意されている。面白いこと請け合いだ。いやそれ程自信がある訳ではないが、飲みの席においてはほぼ100%面白がってくれるという自信はある。
そして今日もそんな寒い日、行きつけのバーでバーボンを飲んでいて、
「ニューオーリンズの古傷が疼くぜ」
と隣りの顔見知りの常連の女性に聞えよがしに呟いたら、
「え、どう言うこと?」
と言ってくれるじゃないか!
「聞いてくれるかい?昔、ニューオーリンズで骨折した時の話を」
「え?骨折?どうしたの?何があったの?」
おぉまさにその、どこかの映画か小説に出てくるバーのシーンのような展開だ。聞いてもらうとしよう。
もう20年くらい前の話だね。2002年くらいだったと思う。俺はニューオーリンズの音楽が好きでね、あ、俺がピアニストなのは知ってるよね?俺のスタイルってニューオーリンズのスタイルを通過したからこその俺らしさなんだ。中でもAllen ToussaintとかProfessor LonghairとかDr.Johnとかが好きでね、その頃そういうバンドをやってたもんだからね、そのバンドのギターボーカルのテッシンて奴がいて、そいつが「今年はニューオーリンズ行くんだ」と言ってたんで、「え、じゃあ俺も行く!」って言って急遽行くことになったんだ。
大人になってから初めての海外旅行だったね。え?そうそう、子供の頃は海外に行ったことあるんだ。というか、住んでたよ、それも3年くらいフィリピンに、それもレイテ島に。あ、その話は長くなるから今日は置いておいて、そう、大人になってから初めての海外旅行がニューオーリンズ。そして初のアメリカ。そんな初めてのアメリカ旅行と、人生初めての骨折がセットになった旅になったって訳。
確か6人で行ったかな。俺とテッシンと、ピーターさんてニューオーリンズ出身で日本在住の人とその奥さん、そしてサチとユリって女の子二人と。泊まったのはB&Bだね。みんなで泊まると安いしね。いやぁでもその場所が職業安定所の目の前でね、治安悪い感じがモロで、実際宿泊中に泥棒に入られたりもしたよ。みんなで街に食事しに行って、帰ってきて、それぞれの部屋に別れたところで「キャーーー」って悲鳴が聞こえてね、「なんだ?」と俺らが駆けつけたら、ナイフを持った男が女の子たちの部屋から現れ、そのまま塀を乗り越えて消えてったんだよ。なんでも、サチとユリが自分たちの部屋に戻ったら、いきなりクローゼットからナイフを持った男が出てきたんだって。想像しただけでも怖いよね。結果、何も取られずに済んだんで、そこは幸いだったけどね。
でも面白いこと楽しいことも沢山あったよ。俺はピアニカ、テッシンはドブロのギターを、あ、アコースティックギターの一種みたいなやつね、それを持ってきてたんで、そう、二人で街の真ん中のJackson Squareって広場でストリート演奏しよう!って計画もあってね。俺ら貧乏ミュージシャンだったんでね、なんとか金貯めてギリギリ来れたようなもんだから、ストリートで飲み代でも稼げればと思ってね。ドキドキしながら二人でニューオーリンズ由来の音楽を沢山やったよ。ニューオーリンズの空港の名前にもなってるLouis Armstrongの曲をやったりね。二人でステップを合わせて踊りながらね。例えるなら、外国人が渋谷の交差点で北島三郎を歌ってるようなもんだよね。そしたら地元の人っぽい人はニヤニヤ笑って通り過ぎていくだけだったけど、観光客っぽい人たちはどんどんドル札を入れてくれてね、20ドルくらいは儲かったんじゃないかな。嬉しかったよ。
「よっしゃこれで晩酌代稼いだぞ!」
その夜の酒が美味かったのは言うまでもないよね。
そう、テッシンって奴はニューオーリンズは2回目だったみたいでね、John Boutteってシンガーの人の連絡先を知ってるとかで、彼の家に遊びにも行ったね。ニューオーリンズのスタジアムでアメフトの試合で歌ったこともあるような、地元の名士みたいな人。そう、ニューオーリンズには、素晴らしいミュージシャンなのに地元でしか有名じゃない、みたいな人が沢山いてね、なんでだろうね、マリファナが蔓延してたからかなぁ。まぁ今ならアメリカはもっと緩くなってるけどね。実際John Boutteの家でもたくさん上物をいただいたしね。なんでもニューオーリンズはカリブ海に面した港でもあるから、キューバあたりから上物が沢山輸入されるんだと言ってたな。ライブも見たけどJohn Boutteの歌、めっちゃ良かったよ。彼の歌うスタンダード曲”I Cover The Waterfront”がかなり素晴らしかったんで、帰国してから俺らのレパートリーにしたくらい。
ライブを見た中では、当時ニューオーリンズで話題のDavell Crawfordって人のライブも見たね。もうピアノからオルガンから何弾いても超絶うまくて、歌もいい感じで、「なんでアメリカ全国区になれないんだろう?」って思うくらいの人。俺らが見た時はまだ20歳前後くらいじゃないかな。普通の、ピアノが置いてあるライブバーでライブをやっててね、覚えてるのは本番中に”Hey master!”と声かけたと思ったら、マイク越しにコロッケか何かを注文してて、その注文が届いたら、片手でフォークで食べながらライブを続けてた(笑)。人前でコロッケを食べながらライブしてる奴なんて初めて見たよ。でも、そういう、音楽のツボを掴んじゃったやつは、コロッケ食べながら片手しか空いてなくても格好いい演奏しちゃうんだよねぇ。俺?俺も今ならコロッケ食べながらライブ出来るよ。よく片手で酒のグラス持ちながらセッションやってたりするからね。
あ、Hip Hopね、うん、その頃はニューオーリンズのHip Hopも元気だったからねぇ、Cash MoneyやNo Limitってレーベルがめっちゃ元気な頃だね、Mystikalとか好きだったなぁ。街でもかかってたかって?それがねぇ、中心街フレンチクォーターとかはポップスばっかで、なんならカラオケバーみたいなのばっかで、下手くそな”Stand By Me”を歌ってるのがストリート中響き渡ってたりしてねぇ、アメリカ黒人だからって歌が上手いって訳じゃないのはその時知ったよ。
そう、フレンチクォーターにはバーボンストリートってメインストリートがあるんだけど、知ってる?Stingがソロになってからのファーストアルバムで”Moon Over Bourbon Street~バーボンストリートの月”って曲を出しててね、それがニューオーリンズなんだってことも知ってたから行ってみたかったんだよね。そう、バーボンウィスキーって俺その頃はそこが発祥だと勘違いしてたんだよね。
後から知るんだけど、ウィスキーのバーボンも、ニューオーリンズのバーボンストリートのバーボンも名前のルーツは同じなんだよね。ウィスキーのバーボンは知ってるでしょ?ケンタッキー州で作られたものじゃないとバーボンって呼んじゃいけないって。厳密にはケンタッキー州のバーボン郡で最初に作られたからみたいだね。シャンパンのシャンパーニュ地方、テキーラのテキーラ州みたいな関係だね、あ、テキーラは知らなかった?そうなんだってよ。で、ルーツが同じって話だけど、どちらもフランス人が入植した場所ってことなんだよね、そう、だからフレンチクォーターって言う訳でね。で、バーボンってのは英語発音な訳だから、綴りを見るとわかるでしょ”Bourbon”、そう、日本ではお菓子のブルボンと一緒、つまりフランスの「ブルボン王朝」のことを指すんだよね。フランス人は故郷を離れて移住した時に、地元愛の証として「ブルボン王朝」末裔ということでBourbonって名付けるのが好きみたい。どちらかと言えばフランス革命で倒された王朝でもあるから、悪しきイメージな気がしなくもないんだけどね、複雑なもんだね。まぁ、欧米人の他国入植・侵略だけでそもそも複雑なんだけどね。
当然ながらニューオーリンズにもウィスキーは売っていて、その名も直球でNew Orleansってのが10$くらいで売っていたんで、自分へのお土産で買って帰ったんだけど、確かそこにはBourbon Whiskeyって書かれてたはずなのね。バーボンの定義からしたらおかしいよね?その理由も後日知るんだけど、あの、焦がした樽で作られた赤茶色のウィスキー誕生にそもそもニューオーリンズの街が関係していたという話なんだわ。酒好きなニューオーリンズ(当時フランス領)の人たちがケンタッキー州バーボン郡から、当時まだ透明~薄茶色だったバーボンウィスキーを購入して、防虫防カビのためってことでたまたま焦がした樽で、馬車で5ヶ月もかけて届けられたその行程であの赤茶色のウィスキーが誕生したんだと。だから、実際にはケンタッキー州で作られていても、商品名やサブタイトルに”New Orleans”と銘打ってあるものが今でもあるんだと。ニューオーリンズに感謝の意を込めてってことね。お酒の誕生秘話を調べるとかなりの確率でそんな「偶然」が転がってて面白いよ。
あ、骨折の話だったね、いやぁニューオーリンズの話を始めると熱くなっちゃってね、ごめんごめん。そう、そんな楽しいニューオーリンズの旅が一週間で終わりになる時ね、めっちゃ早朝のシャトルバスで空港まで送ってもらうっていう予定だったのね。帰りは俺とサチって女の子の二人な予定でね、その子がヘマやっちゃったのよ。無事二人とも早起きして、「さあてそろそろシャトルバスが来るね」と泊まってたB&Bのドアを開けて表に出たらサチが言ったんだ。
「あ、スーツケース中に入れたまま出てきちゃった」
ほんと、「何やってんだよ!」って話だよね。職安の前のB&Bな訳だから、当然ながらオートロックで、しかも早朝で、ドンドンとドアを叩いても誰も出てきてくれない。
「えーーどうしよう、もうすぐシャトルバス来ちゃうよ!」
そこで俺は一世一代?!の格好いいとこ見せよう!なんて思っちゃったんだな。実際サチは可愛い子だったしね、可愛いと思ってる子の前ではいいとこみせよう!くらい男なら思うもんでしょ?で、思い出しちゃったんだなぁ、、
「そうだ、この建物は泥棒が簡単に入って来れるくらい周囲の塀が低いんだった!」と
こんな状況だから、俺が塀を乗り越えて中庭に入ったっていいじゃないか、まだ早朝で周囲誰もいないから俺が泥棒に勘違いされることはないだろうし、、、うん、この駐車場側からだったらすぐ塀に登れるし、塀の高さは2mくらいだし、問題ないだろう。で、俺は彼女に言った。
「サチ、表で待っててくれ、俺は駐車場から塀を乗り越えて中庭に入って、サチの荷物を持ってきてあげるよ」
急いで駐車場に行ったら積み上げられた木材があったので、そこ経由で難なく塀の上までは登れた、が、が、そこで想定外なことが起きてしまったのだ。俺が塀の上に登った瞬間、その塀は粘土のようにフニャッと崩れ始めたのだ。ドキッとはしたが、まぁ2mくらいだ、大丈夫大丈夫、と普通に中庭に着地成功、、、と思ったらなんと運の悪いことか、そこが凸凹の石畳の上で、スニーカーを履いていても、骨折未体験な俺でも分かるぐらい「バキッ」っと骨が折れた感触があった。歩こうと思ったら激痛、左足がやられた。そこからは這いつくばってドアまで行って、
「サチ、ほら、荷物だ。俺は、、、ダメだな、先行ってくれ、トランジットのケアを出来ないのは申し訳ないが、まぁどうにかなるだろう、ほら、シャトルバス来たよ」
そこまでは格好いい風だけどね、そこからが大変だったよ。でもニューオーリンズ出身の友達が一緒に泊まってたので、病院にも連れて行ってもらえたし、チケット変更の手配もしてくれたし、塀の弁償もしなくて済んだ。塀に関しては「改修すべきなのをしてなかったのも悪い」とオーナーに言ってくれたからかな。ま、普通は登らないけどね。あとね、そう、旅行保険に入ってたのは本当に良かったよ。貧乏な俺からしたら一週間の旅行の為に一万何千円の保険を払うなんて馬鹿馬鹿しいと思ってたけど、渋々にせよ払っておいて本当助かった。だってアメリカは治療費がバカ高いってのは有名でしょ?想像しただけでもゾッとするよ。その後の治療費は全て保険会社が払ってくれたからね。その後二日ほど延泊して、ギプスをしてもらって、手土産に松葉杖で何とか帰ってきたよ。そう、松葉杖って今や日本でもステンレス製だけど、2002年頃の日本はまだ木製のものが主流だったんだよね。だから最先端のステンレス松葉杖が手土産、まさに手土産。あ、格好良くないか?
え?サチとはその後なんかあったかって?いやぁ、、今思い返すなら、うまくやり取りすれば、いろいろ手伝ってもらったりすればなんか進展もあったのかもしれないけど、あの時は恥ずかしさの方が勝ってね、電話こそしたけど、会おうとしなかったな、うん、何もなし。その後どうしてるかは、、、あ、双子を産んだかなんかでお母さんになったとこまでは小耳に挟んだ気がするね。
骨折は「左足かかと骨折」。骨は丈夫だったので割れ目は真っ直ぐだったけど、場所が場所だけに折れた骨が五、六本。時間かかったねぇ、両手松葉杖で3ヶ月、片手で更に3ヶ月、半年は松葉杖だったんじゃないかなぁ。ギプスはしたけど、事実上自然治癒を待つ形だからね。あの、内出血だらけの膨らんだ足から、よくまぁ治ったもんだよ。自然治癒ってほんと凄いなぁって思う。まぁ一回切れた骨と血管が、なんとか治ったとは言えね、寒い季節になると実際に足の噛み合わせが悪いというか、疼くことがあるんだよね。
でも、格好良くない?
「ニューオーリンズの古傷が疼くぜ」
なんて言えるってさ。アホな話を、格好いい話風にに無理矢理できるじゃない?
で、この長い話にも一応事後談があるんだけどね。その、呪われたような怪我をした時に履いてたスニーカー、俺しばらくとっておいたんだ。理由は
「骨折が治ったら、またニューオーリンズに行こう。そしてこの靴をニューオーリンズに捨ててこよう!」
実際2年後に行ってきたよ。ついでにJazz & Heritage Festivalも見てきたしね。フレンチクォーターあたりの街中のゴミ箱に捨てた。気分的には厄払いみたいなもんだね。おかげさんで、それ以降は骨折はしたことないよ。まぁ、塀を乗り越えるようなことをしなきゃいいだけだけどね。