茶色いお弁当
おはよう。
学生の頃、「ちびまる子ちゃん」でお弁当を題材にした回があった。なんでも、さくら家のお弁当に色味がなく、茶色いおかずが多い。もっとカラフルなお弁当にしてほしいと、まる子がお母さんにお願いする話だ。
当時の私は心の底から共感して「ねぇ、ねぇ、お母さん」と報告しに言ったのを、今でも覚えている。
我が家のお弁当は、それはもうお洒落とはかけ離れたそれだった。
母のお弁当歴は、私の幼稚園時代と、中高時代の計10年にも及ぶ。まあ、これだけ毎日お弁当を作っていたら、色とりどりなんて無理であることは重々承知の上で書く。
幼稚園の頃、隣の小柄な子は、お弁当も小さかった。こぢんまりしたお弁当に、コロっと小さなミートボールが1つ入っていた。当時、ミートボールなんて口にしたことのない私は、食べてみたかった。彼女のお弁当にあったこぢんまりしたミートボールは冷凍食品で、我が家では禁止されていた。だから、母親にお弁当にミートボールを入れてほしいといっても無駄だったのである。
ある日、幼稚園の遠足の日のこと。お弁当の時間になり、何人かで班になって座り、各々のお弁当を食べ始める。保母さんは、適当な場所に座って食べるのだが、その日は私たちの近くに座って食べていた。私がお弁当の蓋を開けるや否や、先生の驚いた声が聞こえた。
「え!お弁当、それだけ?」
私の手元を見て言う先生に、小さくうなずいた。
私のお弁当箱の中身は、水餃子一色だった。
ちなみに、水餃子が主食であることに幼少期の私は違和感を覚えたことはなかった。当時から母の実家である台湾に帰れば、朝食にその辺で買った小籠包だとか、肉まんだとか、餃子を食べていたので、我が家の文化としては変わり映えのない代物だった。白飯ほど、綺麗な白色ではないが、立派な主食だった。
これまで普通だと思っていた文化が、他人にとっては普通ではないという初体験だったからか、今でも鮮明に覚えている。
さて、中学高校にもなると、私は週に4,5日、白・茶・緑のお弁当と対峙していた。我が家ももっと華やかできれいなお弁当だったら良いのに。そんなことを思って、お小遣いから母にレシピ本を買ったこともあった。だが、その本が開かれることはなかった。
あれから一人暮らしも経験し、自分で好きなものを作れる環境に身を置き、毎日ご飯を作るという行為が、どれほど大変かを思い知った。毎日は到底できないので、週末に作り溜めする戦法で4年半を生き抜いた。
最近、時間のある朝は、イングリッシュマフィンを使って生ハムとアボガドのオープンサンドを作る。DEAN&DELUCAのモーニングで食べて以来、やみつきになってしまったのでアレンジして自作した。
それを食べた母親が一言。
「私も作ってみようかな」
なるほど。食べさせて納得すれば作るのかな、この人は。
もうお弁当を作る習慣はないけれど、どこか遠出したりする時に色とりどりのお弁当を作ってみようかしら。
今日もいってらっしゃい
そして、おかえりなさい