冷徹だけど、いじめってくだらないと思ってしまう。

おはよう。

学生たち、子供達の安全を担保するために教育機関の機能が形を変えている。昔、国際学会でお世話になったアメリカ人教授の娘たちは、家でテレビ通話による教育を受けていると、インスタで取り上げていた。

今、学校に行かなくても学べるという形が出てきて、きっと安心している子供達がいるだろうととある映画を観ていて思った。
いじめられている子達、だ。

いじめってさ、なんで生まれるんだろうね。
それは、人間の根底にある寂しさとか、欲から派生する妬み嫉みとかが形を変えるといじめという造形になるのかな。
冷たい言葉だけれど、くだらない、と思ってしまう。
もっともっと、もっと楽しいことは沢山あるのに。
いじめって、視野の狭い人がやることだなと思う。
それは、子供だけではなく、大人の世界でも同じことが言える。

中高生のいじめでよく描写される時、JKたちの群れる性質から外れたことをきっかけに始まるものが多い。正しいことをしているのに、集団から背いたことによる"ハブり"が始まる。
でもさ、少し考えればわかるのよ。そんな集団、すぐ壊れるんだって。席の奪い合いをしている環境は、脆い。組織の歴史が物語っている。結果も大事だけれど、プロセスに感動するのが人間だもの。

元来、私は"群れる"という行為が好きではない。
自分で冷静に考える力も劣るし、私は個性が失われることを何よりも嫌っている。学生の頃は、同調している友達を見て、とても悲しかった。せっかくの彼女の良さが半減している、と。

群れることを好まない結果、私は損していることも多々あると思う。
大学生になって、他力本願というマインドも時には大事と学んだ。だけど、色々なものがなくなった時、信じることができるのは己のみだから、正しいことを判断できる眼力は必要だ。そして、自分を信じてあげられる強さも大事。

そんな私も"ハブられた"経験はある。でも、大事になったことは全くない。たぶん、そういう些細なことをネタにしたい人たちに比べて、文句を言われないくらいに物事に取り組んでいたことと、ハブられたことに対して気にしていなかったからかもしれない。ま、面白味がなかったし、違う人種だと思われてたんじゃないかな。

この前、母校のJKに聞かれた。

「なんで、そんなに自信があるんですか?」

この前、中学高校時代の友達に言われた。

「なんでそんなに自信あるの?」

そういえば、姉にも言われたことがある。

「あんたって、自信あるよね」

私も、自信がないときもある。色々なものを見た結果、誤った判断をしたかもしれないと思うこともある。でも、それでも最低限の自信があるのは、人生における全ての決断に対して、自分の意志でこれが正しいと選択しているからだと思う。

今、あなたがやっていることは、あなたにとって正しいことですか?

今日もいってらっしゃい
そして、おかえりなさい

文章にあった絵を書いてくださる方、募集していたり。していなかったり。