人間の脳は、思い出を美化するようにできているんだな「喉元過ぎれば熱さを忘れる」
私は、正しい日本語を使えているだろうか。
恥ずかしながら、社会人を5年以上もやってきたというのに、今でも自分の日本語は正しいのだろうかと思うことが多々ある。
なんで、この言葉が通じないんだろう。
なんで、このニュアンスが通じないんだろう。
そんな経験は沢山あった。
学生の頃なんかは、キミの思考はアートだみたいな感覚でキャラクターとして確立してもらっていたように思う。
有り難いと思うとともに、甘やかされていたのだと誰を咎めることもできなくて歯がゆい。
学生の諸君、諸先生方、相手のことを思ってストレートに物事を言うことも、時には大事ですよ。
親を言い訳にするなんて姑息なことしたいわけではないが、ただでさえ、日本語が上手ではない親と過ごすことが多かったため、ボキャブラリーは自分で探すか、博識な人と過ごすことで培うしかなかった。
ここ数年、ようやく伝わらない理由がわかった。
言葉には、プラスのニュアンスとマイナスのニュアンスがある。
それを正しく理解していない可能性がある、そう思った。
これは、仕事する人としては最高に損失だ。
こちらは失礼ではないと思いながらも、本来は失礼である言葉を使っている可能性がある。いや、もちろん正しく理解していて敢えて使うこともあるのだが、その術が崩壊する可能性もあるのだ。
かつて、ノリで会話するようなチームに居たこともあった。
それは私には向いていなくて、仲の良い間柄で出来る技なんだなと思うこともあった。そうすると、そのチームのアプローチは私が考えているチームとは異なるそれになるのだと思った。
最近、一緒に仕事をさせてもらっている人は、巧みに言葉を操る。
もちろん、仕事の経験値が圧倒的に異なることも相乗して、「そうですよね」と、無言でうなずく。
その人が、他愛もない会議でこう言った。
「"喉元過ぎれば熱さを忘れる"じゃないけれどさ…」
ちょうど、その朝、ことば辞典でその単語を目にしていたので、「あっ」と思えたのだけれど、瞬時に意味が思い出せなかった。
というより、そのことば辞典に書いてある言葉を使っている人がいることにニヤついてしまって、脳がそれを楽しんでしまっていた。
その意味はこうだ。
転じて、苦しい経験も、過ぎ去ってしまえばその苦しさを忘れてしまう。また、苦しいときに助けてもらっても、楽になってしまえばその恩義を忘れてしまう。
なるほどね。
意味を理解して、瞬時に私の脳裏に思い浮かんだのは父のことだ。
私の父は、約10年前に他界しているのだが、とてつもなく厳格な一方で愛情深い人だった。
仕事に家庭に、経済面なり…人生は予想もしないことの連続だから、多方面の問題を一緒くたに背負っていたと思う。だから、幼少期から子供たちにとてつもなく厳しかった。もちろん、愛情も垣間見れることはあったからそればかりではないんだけれど。
でもさ、亡くなってしまうと、その厳格さとか不満とか忘れちゃうんだよね。美化されるのよ。
それってさ、多くの"恋愛"も同じだよねぇ。
なんて、人間の脳ってうまくできてるんだろうか。
脳学者さんたちよ、説明してほしい。
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