swfiが誕生するまで_#3

映画業界の流れを簡単に皆さんに説明した所で、
また自分の話に戻ってしまいますが、swfiを立ち上げようと思うに至った原点のような時代、自身の妊娠、出産から復帰までの中で
どういった事を感じていったか、を書いていきます。

◆妊娠から復帰までの気持ちの変化

前述のように、魅力的だけど労働環境はお世辞にも良いとは言えない、
そんな映画業界であまり問題も感じず10年ほどやってきた時、
swfi設立のきっかけの原点となるような出来事がありました。

それは自分の妊娠、出産です。

しかし、その当時の私は、
「子供ができたらこんな業界やめる!続けていくなんて不可能だ!」
と思っていました。
夫の稼ぎメインで生活して、
自分は子育てしながらできる仕事、おしゃれなカフェでコーヒーいれたり、
おわる時間が決まった仕事をしよう。
この仕事をやめるのは残念だけど、、でも無理だしね。
だったら楽ちんな仕事(仕事はなんでも大変なのに、我ながら失礼な事です。。。。)しよう!
なんて考えていました。

なぜなら私の部署である装飾部、そして現場最前線に出る小道具というポジションで、
子供を産んでからも続けている人はいないに等しかったからです。
自分も子供ができたらやめるしかないでしょう、
と、自然にそう思っていました。

カフェとかで働くの楽しそうじゃん!そう前向きに思っていただけ、
ポジティブでよかったのかもしれませんが、、、

子供を育てながらこの業界で働く女性、、、
つい10年弱前まで、
そのような女性は、衣裳部さんでしか見たことがありませんでした。
メイクさんに1人、女性プロデューサーで1人、いたような、、というくらいで、
衣裳部さんくらいしか現実的に無理だろう、と思っていました。
衣裳さんは、撮影前にスタイリングを決めたら、現場は助手の子がまわし、自分はピンポイントで現場にくる、という事が可能だからです。
しかしこれも、ある程度キャリアを積んでから子供を持った場合のみ可能な事です。

実際はもっといたのかもしれませんが、
単純に自分が子供を持つ前だったので、意識していなかったというのも大きいのと、結婚して子供がほしいからやめた、子供ができたからやめた、
そういう人の方が、より多く知っていました。

一緒に活動をしてくれている、yuriもそうです。
彼女は12,3年前まで美術部として働いていました。
子供が出来た時、あたりまえに「辞める」道を選びました。
私も当時は、「子供できたんだ!おめでとう!辞めざるを得ないよね」とあたりまえに思っていました。

ほんの10数年前まで、こんな感じだったのです。

私が妊娠したのは7年前頃でしたが、
やはり当初はあたりまえに辞めると思っていました。

映画を作る部署はどこも大変ではありますが、
私のやっていた小道具というのは、常に最前線、
現場に1人きりの時もあり、装飾部の一員でありながら、
飾りチームとは確実に違う単独部署のようなもので、
やるべき事がとても多い役職なので、
到底子供を育てながらやれるものではなかったのです。

これは今でももちろんそうです。

◆何故復帰したか

それでは何故私が今も映画業界にいるのか、というと、
たくさんの要因がありますが、
まず、子供が半年を過ぎた頃に、
まだ喋れない娘と日中ずっと家にいる日々が続き、
ありがちですが社会から断絶された感覚を味わい、
急に社会復帰したくなったからです。

そして子供ができた当初は、やめて当然!と思っていた映画の仕事から離れたら、突然未練のような物がでてきて、
やっぱりまたやりたいな、と思い始めたのでした。

しかしやはり「無理だろうな」という気持ちはあり、
じゃぁなんの仕事ならできるか?とも考えました。
私は前述の通り17歳でこの業界に飛び込んだので、
高校をやめており学歴がなく、
たとえパートだとしても履歴書に「高卒」と嘘を書いていいのだろうか、
と気がひけたこと、
更に新しい仕事をするならきちんと保育園にいれなければ、、
でも簡単には入れそうにない、、

するとその頃から業界は新人が入らなくなってきて、
人手不足になってきたので、応援でも雇ってもらえそうだな、
と思うようになりました。

その時期に、同じ装飾部で子供を育てながら仕事を続けている友人を思い出しました。
彼女は、私が初めて見た、子持ちで仕事を続けている装飾部、でした。
その友人は、旦那さんが装飾会社の社長だったので、
融通がきくので出勤日をセーブしながら続けていられる状況でした。

そんな彼女に声をかけてみたら、仕事に誘ってもらえました。
これら様々な要因で、無事?復帰する事になりました。

復帰といっても、
まだ保活すらしていなかった私は、
親に頼んで自宅まで来てもらい娘の面倒をみてもらったり、
決して安くはないベビーシッターを頼んだりして、
週に数日仕事をしていました。

そこまでしてでも家の外に出たかったのを覚えています。

今まで終電も厭わず、見ようによってはダラダラと仕事をしてきたのに、
お迎えの時間に追われて思うように仕事ができず、悔しくて涙がでる、
更に面倒を見てもらってる親などへの謎の罪悪感に苛まれる日も。

その後自身の離婚もあり、よけいこの仕事をやってやる!
と半ば意地になりながら、まだ1歳になったばかりの娘を
認可外のとても高い保育所に預けながら、
必死に頑張っていました。

そう、当時の私はとても頑張っていました。

「今の映画業界に子持ちの私が合わせる」為に。

つづく

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