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エルヴィスとジョンと「音楽が死んだ日」(+ドローイング#18,19)

浅学愚論テキストですみませんが2回目です。
作品画像も最後に付いています。


エルヴィスとジョンと「音楽が死んだ日」


いま描いているドローイングは、リーゼントを”火事の炎”に取り入れようと思いついたところから始まっているが、それはエルヴィスを聴いていたから。

そんなエルヴィスのことを調べていると、ビートルズがエルヴィス宅に訪問したときのエピソードが出てきた。そのエピソードによると、ジョン・レノンはエルヴィスに向かって辛辣にも「サン・レコード*時代が好きだった」「ロックンロールはもうやらないのか」などと言ったといわれている。(サン・レコード*=エルヴィスの初録音スタジオでありデビュー元)

エルヴィスも機嫌を損ね、重い空気になったそうだが、でもこれは偽らざるジョンの本心だろうし、自分に多大な影響を与えたエルヴィスに対する愛情の裏返しだとも思う。

ジョンは、エルヴィスの何に惹かれ、どんな影響を受けたんだろう?
調べるうちに、そこにロックが生まれる核心があるのかと思うようになった。


[白人による不良音楽]

1950年代半ばのデビュー当時、エルヴィスは特別な存在だった。
不良のあかしのリーゼント(ポンパドール)に、黒人の楽曲に黒人のような歌声、卑猥なダンスのエルヴィスは、それまでの白人の保守的な音楽スタイルとは違っていた。

エルヴィスは、黒人文化の影響下、テネシー州メンフィスで育った。
メンフィスは、ミシシッピ川流域の黒人文化の色濃い街。その昔、綿花の集散地として発展を遂げたが、(綿花畑で働く)奴隷の売買も盛んだったそうで、今でも人口の過半数はアフリカ系アメリカンという土地柄。(マーチン・ルーサー・キング牧師が暗殺された街でもある。)

小さい頃にメンフィスに引っ越してきたエルヴィスの家庭は貧困層にあたり、引越し先はアフリカ系アメリカンの地区。そのおかげで黒人文化に馴染み、毎日のようにR&Bやブルースのステージを見ていたらしい。
そして幸運なことに、当時、革新的な音楽を多くレコーディングしていた「サン・スタジオ」が、このメンフィスにはあった。

1950年よりレコーディングを開始したサン・スタジオのスローガンは「何でも、どこでも、いつでも録音する」ことで、その目的はたとえば、どこでレコーディングしたらいいのかもわからない南部の埋もれた黒人アーティストのレコーディングを行なうことだった。そんな開拓精神のような熱い気持ちもあってか、当時の革新的音楽であるロックンロールをどこよりも先駆けて録音できた。

そして、その録音方針のおかげで、無名の若きエルヴィスも自力でサン・スタジオで録音することができ、それがプロデューサー、サム・フィリップの耳に留まり、エルヴィスは1954年、デビュー曲「ザッツ・オールライト」をリリースすることになる。

↑「ザッツ・オールライト」(1954)


「エルヴィス以前は何もなかった」ところへ、エルヴィスが生み出したのはいわば”白人による不良音楽”だった。

黒人が奏でる音楽様式の一つである”ロックンロール”を、エルヴィスが”模倣”することによって”はじめて”白人による不良音楽が生まれた。

まだ人種差別が厳しい1950年代当時、レンストランやバス、トイレなど、街のあちこちが人種により差別、隔離され*、有色人種とくにアフリカ系アメリカ人はひどく冷遇されていた。音楽でも、黒人の曲を白人がカバーしたものがマーケットで宣伝され、ラジオに流れてヒットする時代だった。

しかし、どんなに冷遇されていても”クールな音楽といえば黒人音楽”というのは揺るがない。そう白人自身も内心で思っているからこそ、黒人音楽はどこか聴くのが憚られる、それでいて余計に背徳的な(不良的な)魅力を放つものだったのではないだろうか。

実際、白人不良映画「乱暴者」(1953)の劇中にジュークボックスから流れる音楽もビバップ(ジャズ)=黒人音楽だった。



*注
ジム・クロウ法(1876年から1964年にかけて存在した、人種差別的内容を含むアメリカ合衆国南部諸州の州法の総称)という人種隔離政策がアメリカにまだあった時代の1955年(今回たびたび出てくる年号)、「モンゴメリー・バス・ボイコット事件」という事件が起こった。
公共のバスに白人専用座席が存在した当時、パークスという一人の黒人女性が白人専用座席を白人に譲らなかったことから逮捕された事件だが、パークスら有志は抗議運動を組織して13ヶ月のバス・ボイコットの後、モンゴメリーのバスは法的に人種統合された。これに、いうなれば演説担当みたいに参加したのがマーチン・ルーサー・キング牧師で、キングの演説の効果もあり、このバス事件をきっかけに公民権運動が高まっていったらしい。


そこへエルヴィスの登場を皮切りに、多くの白人によるロックンロール=ロカビリーが登場した。それぞれに独自のスタイルを持っていて、ロックンロール(ロカビリー)の振れ幅を聴くのもおもしろい。しかし、エルヴィスの存在感はやはり特別だと思える。

エルヴィスがいなければロックは生まれなかった、ということもないだろうが、それでも音楽以上の影響力をもったエルヴィスによって、”白人による不良音楽”は鮮明に強調されたと思う。


↑ ジョンが好きだったというサン・レコード時代の音源。


↑ 1956年発表の1stアルバムの一曲目「ブルー・スエード・シューズ」。
(このまま再生リストで1st全曲が聴けるはず)
1stにもサン・レコード時代の5曲が収録されている。
(私的には1stを聴きながらドローイングなど制作している。あとはバディ・ホリーとロイ・オービソン、あとリトル・リチャードあたり)


[レベル・ミュージック、ロックの誕生]

”ロックンロール”という音楽様式を、白人が模倣して”ロカビリー”となり、これがやがて”ロック”へと進化するわけだが、しかしここで急に言葉の定義が曖昧になってくる。ロックってなに?という疑問は誰もが一度は通らないだろうか。

しかし考えてみれば、定義があって論理的にロックは構築されたわけではないし、だからロックは多様でもあるのだから、ここは自分の考えで”ロック”を捉えてみることにする。

今回エルヴィスを中心に調べてみて、思い至った自分なりの”ロック”、そのきっかけはジョン・レノンがエルヴィスに放った「サン・レコード時代が好きだった」「ロックンロールはもうやらないのか」だ。

エルヴィス宅へ訪問の後日、「エルヴィスがいなければ今の自分は居ない」と伝えるよう人に頼んだとの逸話もあり、また、そういえばElvisと刺繍されたジャケットを着ていたりして、ジョンにとってエルヴィスは永遠のアイドルだったのかもしれない。↓(画像引用元:https://ameblo.jp/tnelvis/entry-12230116618.html)

画像3

だからこそのエルヴィス宅訪問時の苦言だったのだろう。
では、ジョンに多大な影響を与えたエルヴィスの音楽とはなんだったのか?

それは、今にすれば当然のようにも思えることだが、”白人による不良音楽に潜んでいたレベル・ミュージックへの可能性”だったのではないだろうか。

もしかしたらそれは演奏する本人たちにもあまり自覚されなかったことかもしれない。しかし少し離れたところから見ていたジョンがそれを発見したんじゃないだろうか。

つまり、”ロックはジョン・レノンによって発見された”という考え。

もちろん実際には、特定の誰かがロックを発見したとかではないだろうし、建前的に誰かを立てるのならジョン・レノン、ということなのだけど。

(しかしこれは、オノ・ヨーコを発見して彼女から現代アートのエッセンスを取り込んだ時と同じようなジョンの能力にも思える。)

ともかく、ロカビリーの不良性、反社会性に含まれる社会批評性を原点に、レベル・ミュージックとして誕生したということが、ロックが単なる音楽様式に留まらない魅力の大きな理由なんじゃないかと思う。


労働者階級やティーンネイジャーが支持したエルヴィスの音楽は、たしかに彼らにとっての無自覚的なレベル・ミュージックだったかもしれない。

エルヴィスのレコードは、公園や教会などアメリカのあちこちで保守的な大人たちによって焼却されたという。梵書ならぬ梵レコ。

理解されない世代間の断絶は、時代の急進ぶりを伝えている。
社会の急激な発展とシステム化(政治の官僚化や企業の巨大化からロードサイドビジネスにおける店舗のフランチャイズ化まで)により、人間性(人間のあり方)はそれまでになく変化を強いられ、分断され、制約され、その本質を喪失するかのような漠然とした不安があったのかと思う。

その不安とはしかし、時代の変化に取り残される”理解できない”親世代よりも、新しい価値観を纏うことで次代を生き抜く子世代=ティーンネイジャーたちにこそ大きかったのかもしれない。

そんな彼らティーンネイジャーに支持された(感覚的な表出である)不良音楽は、だからこそ、社会の歪みを告発する”レベル・ミュージック”に昇華する可能性を秘めていたのかもしれない。

単に直感的な不良音楽から、社会の矛盾を突くレベル・ミュージックへ。そのことに気づいたのが、ジョン・レノンであり、ビートルズだったのかもしれない。ジョンの本質を見抜き理解するずば抜けた能力の偉大さを思うと、そう考えてみたくなる。

現代アートの世界では、デュシャンの「泉」以来、”価値の発見”が重要な使命となっているが、ロックも音楽の在り方に新しい価値を与えたという点で、20世紀の大きな発明で、偉大なクリエーションだと言われるのだろう。


(「チャック・ベリーがつき、エルヴィスがこねしロック餅、座りしままに食うはジョン・レノン(ビートルズ)」。)



[音楽が死んだ日]

ジョンを刺激したエルヴィスの音楽とは、”白人による不良音楽”のうちに潜む”レベル・ミュージック”への可能性だったとして、しかし、もしかしたらエルヴィスはその価値に少し無頓着だったのかもしれない。

というのも、エルヴィスが、厳密な意味で”不良音楽”であったのはデビュー当時の数年で、その後は隆盛するショービジネスに呑み込まれてしまう。

しかしロックンロールの不幸はそれだけではなく、50年代後半あたりから不思議な急失速をしている。

この頃のロックンロール界隈に起こった出来事がウィキペディアに詳しいので、抜粋させてもらう。↓

1957年末 - オーストラリアでのツアーに向かっていたリトル・リチャードは、移動中の太平洋上で、乗っていた飛行機のエンジンが火を噴くのを窓から目撃し、「願いがかなったら神職につきます」と、搭乗機の無事を祈った。無事シドニーに到着したリチャードは突如引退し、神学校に入学して牧師となった(後に復帰)。
1958年3月 - エルヴィス・プレスリー陸軍に召集(1960年3月満期除隊)
1958年5月 - イギリスツアーを予定していたジェリー・リー・ルイスの妻が13歳だった事が現地で問題化してツアーはキャンセル、当時の米国では合法であったものの、問題を掘り起こすうちに前妻との離婚が未成立だった事が発覚し重婚罪として本国でも問題化、事実上追放(後に復帰)。
1958年末 - それまで合法的な慣例とされていた「宣伝料を支払ってオン・エアしてもらう」ペイオラが、突如不道徳・反倫理的として糾弾され翌年には非合法化、遡及的にアラン・フリードら人気DJが追放される。
1959年2月 - バディ・ホリー、リッチー・ヴァレンス、ビッグ・ボッパーが飛行機事故で死亡(音楽が死んだ日)。
1959年12月 - 14歳の少女を不法に州境を越えて連れ回したとしてチャック・ベリーが逮捕される(後に、1962年から2年間服役)。
1960年4月 - イギリスツアー中だったエディ・コクランが移動中の自動車事故で死亡、同乗のジーン・ヴィンセントも重傷を負い後遺症が残る。
(wikipediaより)


ウィキペディアでは事故、不祥事の他に、「ロックンロールが商業化した」こと、「保守的な大人からも容認される比較的健全な曲がラジオから流れるようになっていった」ことなどをロックンロールの衰退の理由にあげている。

この「健全な曲がラジオから流れるようになっていった」のには陰謀めいたペイオラ・スキャンダルという事件が絡んでいる。

1958年に起こったペイオラ・スキャンダルは、それまでラジオDJがレコード会社から金銭をもらって選曲していた慣例(ペイオラ)が急に不道徳だと叩かれ、多くのDJや音楽関係者が業界から追放された。有名DJであり、いまだ人種差別が根強いなか黒人音楽やロカビリーを常に流し続けたアラン・フリードもラジオ局を解雇された。

ロカビリー誕生の同時期1954年より「ロックンロール・ショー」という番組をヒットさせるなど、黒人音楽も積極的に流すアラン・フリードは、エルヴィス同様、それ以上に各地各界の保守層に睨まれていたようで、多くの非難を浴びていたのらしい。

ペイオラ・スキャンダル以降、アメリカのラジオからは、耳障りの良いおとなしいポップスばかりが流れるようになり、ロックンロール(ロカビリー)は下火になっていったということだ。


それにしても、本当に不幸な巡り合わせに思えるのは、事故死した3人の音楽を聴くとき。それぞれに本当に魅力的なので3人の音源をここに。

↑男っぽいロックンロール。コアなファンが多いに違いないエディ・コクラン。今回初めて聴いた人の一人だけど、初聴でハマるかっこよさ。早逝の人というのはやはり何か持っているんだろうか。21歳没。


↑1959年、リッチー・ヴァレンスは弱冠17歳でバディー・ホリーと共に飛行機事故で亡くなった。バラードの歌声も好きだけど、映像なら見た目と歌声のギャップがかっこよいこれ。
リッチー・ヴァレンスも今回初聴。「ラ・バンバ」が有名なメキシコ系アメリカ人で、同名の伝記映画がある。(自分は見たことはないが。)それほど愛されていたのかもしれない。今度見てみよう。


↑最後はマイ・フェイバリット、バディ・ホリー。22歳没。
リッチー・ヴァレンスらと共に飛行機事故で亡くなった1959年2月3日は「音楽が死んだ日」と呼ばれるようになったそうだ。それほどに当時のロックンロールの失墜はこの悲惨な飛行機事故に重なって映ったのかもしれない。

テキストを編集しながらこれらの映像を見ていると、本当にロカビリーの衰退は傷ましい。

エルヴィスのデビュー曲「ザッツ・オールライト」(1954年7月)をロカビリーの発端だとすると、「音楽が死んだ日」の1959年2月まで、ロカビリーの時代は5年にも満たない。

保守層の非難、弾圧が当時どれほどであったのか、それがどれほどロックンロールの死に加担したのかはわからない。

しかし、エルヴィスのレコードが燃やされたように、アメコミの世界もまた保守層に睨まれ、表現を制限され、衰退に追い込まれている。(このこともまた詳しく調べてみたい。)

世代の断絶は現代の想像を超えるものかもしれない。そして、若者の文化を衰退させるなど政治の力にとっては容易いことなのかもしれない。

いや、今だって文化に対する政治的抑圧はたくさんある。時代によって強弱するが、基本的に文化の生殺与奪権は政治に握られているものなのかもしれない。

一人ひとりの暮らしからは多少なりかけ離れた規模で政治は起こっている。大きな視野で自分たちの暮らしを俯瞰すると、その力も見えてくるのかもしれないし、様々な矛盾も見えてくるのかもしれない。そして、多くの場合はそれを見過ごして、無頓着に暮らしているのかもしれない。

ロックとは、まさにそういう事柄に対して意識を向けさせるツールとして生まれた。

そして、快楽的に疾走するロックンロールは、自分たち自身を弾圧する権威の前に”殉死”して、ロックとして”復活”したと考えると、「音楽の死んだ日」にも意味があるように思えてくる。


リーゼント(ポンパドール)もまたロックンロールとともに殉死して、海を渡って復活する。
ポンパドールリーゼントが海を渡り、”クイッフ”となって進化したように、60年代に入ってロックはイギリスで勃興していくのだ。



次回はエルヴィスとショービジネスについて調べます。


最後に、今日の作品画像、#18と#19を。

画像5

thewildone018_colored pencil on paper, 162×162mm, 2021_6,000pt


画像5

thewildone019_colored pencil on paper, 162×162mm, 2021_6,000pt


*トリミングした感じが気に入って、テキスト投稿に使いたかったので、見出し画像は既出の#16です。




参照、引用:
http://www.tapthepop.net/extra/81983
https://ja.wikipedia.org/wiki/エルヴィス・プレスリー
「カウンターカルチャー前夜 ―アメリカの 1950 年代についての一考察― 」佐藤成男 (玉川大学観光学部紀要 第 2 号 2014 年,pp. 83~92 )
https://ja.wikipedia.org/wiki/ロックンロール
https://pulse.rs/john-lennon-before-elvis-there-was-nothing/
https://ameblo.jp/tnelvis/entry-12230116618.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/ジム・クロウ法
「ローザ・パークスとマーティン・ルーサー・キング・ジュニア」森田美千代(聖学院大学総合研究所紀要No.50)
https://en.wikipedia.org/wiki/Eight_Elvises
http://www.rockabeat.net/history.html



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