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私のメメント・モリ


今日は、昨日の投稿の最後に出掛けた散歩の話。


上の画像は、畑跡の原生林(草)。
草だが、ミクロな自分になってみたら草も原生林くらいの迫力になってくるので、雄大な景色の果てに後光が差す。

畑跡の起伏をビル群跡に見立てれば、文明後の風景のリアルジオラマ。




しかし原生林もいいんだが、自分はどちらかというと里山が好きで、人の暮らしと混じった自然がやっぱり目にも豊かにうつる。

生態系の多様さ、ビオトープ的自然、庭先に蒐集される草花など。

そして、その循環系が山にまで続く昭和的里山の美しさは、人の営み自体も含まれている。

美しくいえば、家々の軒から上がる夕餉の煙の風景、というような。



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そういう人の営みも”自然”に含めているので、
古い里村に新道路の橋桁が生えてくる、↑な風景も良しとするしかない。



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夏といえば青栗。なつい。


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トーテムポール?ボーイスカウト?
いろいろ混じってます。


特に撮るものもない平穏な散歩道、カメラマン気分、目に入るものはなんでも撮ってしまうので、道端の虫が蟻にとり囲まれているのまで。


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いやしかし、これは小さめに投稿。大した写真でもなし。


ただまあ、メメント・モリを思い出したので、本家、歴史的写真のほうを勝手に転載させていただく。

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写真画像・藤原新也(転載元:http://blog.livedoor.jp/ishizueblog/archives/51664529.html)


「人間は犬に食われるほどに自由だ」という藤原新也の写真。

この写真がたしか、「メメント・モリ」(1983年)に収録されている。


”死を想う”とともに、
死の尊厳をメディアに写すことの倫理と表現の必然性の問題を想う。


”メメント・モリ”コピペ的な画像をただ漫然と投稿してももはや意味がない。

最初の(最初に発見した)写真だけに意味があると思う。

そういう最初の写真だけが持つ、表現の自由(というより必然的な表現)があると思う。

その表現によって社会が変わる、というくらいの、社会にとってちょっと痛いけど必要な表現。


写真・報道に限らず、芸術作品にも起こりうる、”見る人を傷つけてしまう”ものというのは、”表現の自由”を超えた”表現の必然”ともいうべき大事なものだと思う。

普段は気づかないふりして済ませている、痛いことを知るべき痛点を刺激するのだから。


しかし現在は、この痛点、気づかずに済ませようとするムーブ感がある。
と同時に、厳しい規制感も。

というか、実際に痛いのだ。
社会の仕組みが破綻しているから。

それで、倫理や正義というものも社会全体でブレているんだと思う。

単純な話だがしかし、痛点だから、できれば見ないで済ませたいとこ。


自分の写真や作品などどうってこともないものだが、それでも、たとえば、冒頭の写真を「文明後の廃墟に原生林の生い茂る風景をイメージして撮った写真です」と言ったら、「そんな怖いイメージじゃないのでお願いします」と言われる不安感がリアルに常にある。

不吉、迷信すら遊べない世の中、こんなときほどぶっ飛ばして欲しいものだ。


ということで?、”私のメメント・モリ”は、こちら↓

”文明後の廃墟に原生林の生い茂る風景見立て210729"


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以上、散歩ばなしでした。


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