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名付けて衣類手記第9話【持ち物の価値】

どうも衣類です。今回は
うさぎとかめの競争現場だった丘、みたいなイメージの落書きです。
線をぐちゃぐちゃしなければもうちょっとマシになったかと思う、がもはや癖なのか。
今度この白黒だけの絵を清書する機会をもっていいのかもしれない。


さて、自閉症とはちょっと内容が違うかもしれないけど
障害があっても僕が毎日幸せを感じて過ごせている価値観、っつか考え方の一つでも書き記してみようかなと。

元々人脈は少ないが、僕の周りには僕より「持つ者」が多い。
しかし総じて彼らは、その環境を特段幸福に思ってはいない。

夢だったお仕事に就いて、結婚して、子供に恵まれた親友がいる。
が、彼女からそれを「幸せ」だと聞けずに聞いたのは旦那様と姑さんの愚痴だったり。

昔の友人に、両親と持ち家と沢山のペットに囲まれた比較的裕福な家庭の子が居た。
でもその子は決して人生の先を見ようとせず、一時の快楽のみ追い求めては我に返り悲観する…、を繰り返していた。
その子から「楽しい」は聞けても「幸せ」はついぞ聞くことはなかった。

かといい僕は「そんな沢山のものを持つくせに何を」という気はない、人によって幸せとは異なるものだ。
人生は「ある」からといってそれだけで幸せにはなれない。
それでも「ない」部分に目を向けて嘆く人は多いし、あればあるだけそれが「当然」になり感謝の無い人もいる。

僕はASDで社会に適応しづらい症状の数々に困っている。
健常者の精神は持っていない、友人もお金も少ない、恋人や配偶者どころか恋愛感情すらまともに抱けない、仕事も今は障害の症状の悪化で退職している。
しかし無い物だらけの割には「幸せ」をしっかり感じているのだ。
僕の持ち物というと…、そうだなぁ。
過去の手記でも書いている「毎日今が一番いい!」と感じられるこれまでの経験値と
成長を共に喜んでくれる母と姉だろうか。

人の境遇において「それだけ恵まれていたら幸せでしょう」「悩みなんてないでしょう」とかぬかしおる人がいる。
人の苦しみに対して「みんなも辛いんだよ」「誰の方が彼の方がー」とかぬかしおる人もいる。
が、個人個人で持ち物の価値が違う以上はこんなこと言ったところで誰も幸せにならない。

これが僕の幸せの一つを作る価値観。
持ち物の世間的な価値なんてどうでもいいの。
沢山持っていてもそれが「当たり前」でしかなかったら、本人は幸せは感じられないだろうし
少ない持ち物でも、そこに感謝ができるのならば、それは幸せを感じられる大事な宝物なのだ。

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