女子サッカーにもっと「喜」と「楽」を
『隔離の記憶』という書籍を紹介したい。ハンセン病で隔離された人たちの生き方を綴ったルポタージュだ。差別・マイノリティ問題に関心を持つ私にとって、何度も読み返してはそのたびに新しい気づきを得られる、いわばバイブルのような存在である。
このルポが素晴らしいのは、「当事者はつらい思いをしてきました」「偏見はやめましょう」といった差別・マイノリティ関連書籍でよく目にする紋切り型の言い回しは皆無で、それでいてハンセン病という問題について強く読者に訴えかけてくる点だ。
ハンセン病を患った人は家族と引き離されて施設での生活を余儀なくされるなど、筆舌に尽くしがたい経験をしてきた。あまりの悲惨さに読んでいて途中で何度も涙腺が緩む。それでも、読後に残るのは希望、笑い、輝きといったポジティブな感情だ。
施設を見学しに来た女子大生と親交を深め、数年後に結婚式にまで招待された男性。詩を書き続けて賞を獲得した女性。彼らは一様に絶望を味わったはずなのに、それぞれが生きることに楽しみや喜びを見出していく。ハンセン病に関する書籍は数多く世に出ているが、入門書として迷わずこの本をすすめる。読み終わったあとはハンセン病問題についてもっと知りたいと思うはずだ。
著者の高木智子さんは、あとがきで以下のように記している。
自戒を込めていうのだが、なぜ先入観や固定観念をもっていたのか考えて行くと、ハンセン病報道はどこか一辺倒で、画一的ではなかっただろうか。喜怒哀楽の「怒」と「哀」を伝え、「喜」と「楽」への視線が欠如していた。取り返しのつかない人権侵害と人生被害を伝えるために「怒」と「哀」が強くなりがちだが、果たしてそれがすべてかと問うたときに「違う」という思いがもたげてきた。濃淡はあるにせよ、24時間365日のどこかに、生きがいを育み、喜び、語らい、笑い、そして前を向いて歩いておられるのも、また事実である。喜怒哀楽がそろって、人間の営みだ。
出典
高木智子『隔離の記憶』彩流社、2015年
頭をガツンと叩かれたような衝撃を受けた。
「『喜』と『楽』への視線が欠如」しているのは、女子サッカー選手に対するメディアの報道、そして私自身がかつてイメージしていた「女子サッカー選手像」にも当てはまるからだ。
女子サッカー選手が男子と比べて待遇面や環境面で劣るのは周知の通り。ただ、そのことを差し引いても「彼女たちは差別されている」「男子は恵まれすぎ」という画一的な、そして「負」の記事があまりにも目立つ。一時期よりは減ったが、それでもまだ多い。
選手のインタビューを読んでいても、彼女たちに「被害者」「かわいそうな存在」というイメージを植え付けようという思惑の思惑をとても強く感じることがある。失礼なのを承知で書くと、選手にきちんと向き合わずに自分たちの都合のいいように女子選手像を作り上げているように思えてならない。
彼らが書く記事を支配するのは、「怒」と「哀」だ。本人たちは本人たちなりに女子サッカーを盛り上げようとしているのかもしれないが、説教じみたネガティブな内容では周りの支持を得るのは難しい。
かくいう私自身も、かつては女子サッカー選手のことを失礼ながら「厳しい環境に耐えながらプレーしている、健気な女性」といったイメージしか持っていなかった。だが、なでしこリーグの試合に足を運ぶ回数が増えていくにつれて、そして普段通っているサッカー教室で女性と一緒にプレーすることで、「喜」や「楽」の面も感じることができた。そして今ではこのスポーツのことが好きになっている。
言うまでもなく、女子サッカーには解決すべき問題がたくさんある。そのことは目をそらしてはならない。ただ、当たり前だが、選手たちのサッカー人生にあるのは怒哀だけではない。
女子サッカーを発展させるためにメディア、そしてわれわれがすべきこと。ステレオタイプの女子選手像を捨て、選手たちの喜楽にも目を向けるべきではないか。喜怒哀楽がそろって人間なのだから。