VR健常者#4 「健常者という嘘」

これは僕がインターネット上で健常者として過ごしてきた日々を綴るマガジンだ。まずは、軽く自己紹介をさせていただきたい。

現在、脊髄性筋萎縮症という難病を抱えており、食事や排せつ時以外はほぼ寝たきりの生活を送っている。いわゆる、身体障害者だ。こうして、文字を打ち込んでいる今も寝たままだ。テクノロジーの進化に伴い、寝たままでも出来ることが増えた。なかでも、電子書籍の普及は、紙の本のページをめくれない僕にとって大変ありがたいものであった。
そして、外に出なくとも自分を発信できることが何よりも大きい時代の進化だ。外に出なくとも、人とのコミュニケーションを図れる喜びは、筆舌に尽くしがたいものがあった。
そんな僕が、あえてリアルの生活とは乖離して健常者として過ごしたネットライフをここでは紹介していきたい。


今から約15年前の話をしたいと思う。それは僕が最も生きがいを感じていた、インターネットの中での僕の話だ。その上で、まず、理解していただきたいのが、インターネットの自分と対極にある、障害者としてのリアルでの立ち回り、との違いだ。

僕という人間は、ひとりでは何もできない。それは、広く哲学的な意味ではなく、真に物理的な意味で、だ。ひとりで、食事をとる(食を口に入れる)こともできなければ、排せつをすることもできない。もちろん、性行為さえも。

そんな中で、学校生活を乗り切るには、人の手助けが必要不可欠なわけで、人に嫌われたら、僕の学校生活は終わる。友達にノートを貸してもらって、勉強にも何とか追いついていたし、授業間の移動も友達の手助けなくては、ひとり教室に取り残される。

なので、僕が学校生活で、最善の注意を払っていたのが、人に嫌われないことだ。この頃の僕は、人の理不尽さを、重々と、承知していた。昨日まで人気者といってよかった人間が、明日には誰からも話しかけられなくなる、なんてことを経験してきたからだ。

一方で、自分という人間が障害者であるという理由で、イジメられるのも時間の問題である、と自覚していた。他の人とは違う人として、排他されることをひどく恐れていた。しかし、なかなか、その時は訪れなかった。

当時の僕は、誰にも相談することなく、このイジメられる人とそうでない人の違いがどこにあるのか、考えていた。例えば、口元に大きなホクロがあることが原因で、イジメられているクラスメイトがいた。

彼(彼女)が身体的な特徴が原因で、イジメられているとするならば、僕だって、イジメられるはずだ。しかし、僕が踏みどまっている理由を、周りをよく見て観察した。
その中で僕が下した結論が、イジメの標的となってしまっていた子たちは、大半は、内面が問題であり、身体的な特異性は、イジメられる原因というより、イジメる手段として(口撃など)活用されるということだ。

ここでいう内面の問題というのは、倫理観の欠如や、人格否定という側面の話というより、もっと、理不尽なものだ。「ノリがいい」であるとか「空気が読める」といった、同級生同士でしか伝わらない漠然とした能力だ。

同調圧力と言ってもいいが、いわゆる、カリスマ性がある、人間もいて、そんな人たちは、人と違うことをしていてもイジメられることはない。

僕はこの「ノリ」と「空気」に注力して、中学時代をやり過ごしてきたが、高校時代では、周りが"オトナ"になっていったので、イジメられることに怯えて生活することはなくなった。
その時のことは、詳しくはこちらに書いてある。

一方で、僕は高校生になると、打算的な人間になっていた。有体に言えば、「周りに応援される人」になろうという心がけを大事にしていた。具体的には、障害を持っていても、健気に、前向きに生きている模範的な生徒、を目指していた。

悪意をもって書いているのではないが、いわば、24時間テレビに出演していそうな障害者を振舞っていれば、他人(健常者)から見た障害者イメージとの差異が生まれず、応援されやすく、生きやすい人生を送れると、思っていたのだ。

高校生からの僕(リアルでの生活)は、おちゃらけた雰囲気を、一切、封印して、世間の持つ障害者イデオロギーに忠実な人格形成を行うことにした。

リアル生活で、友達を作ることを、半ば、あきらめていた僕は、インターネットで、気心の知れる友達を何人かつくることができた。僕は成人男性の平均身長と、平均体重を調べて、何の変哲もない平均的な男を演じ続けた。「ノリ」と「空気」に注力して中学時代を過ごしてきたので、同世代の人たちと、瞬く間に、仲良くなることができた。

なにものにも脅かされず、在りたい自分で在れる喜びに満たされていた。しかし、そうした理想の自分を形成して、仲間を作っていくと、次のステップへ周りは進もうとするのも事実だ。

「せっかく、これだけ仲良くなれたのだから、リアルで会ってみたいよね」

ごくごく自然な流れだ。今ほど、オフ会というものが市民権を得ていた時代ではないが、インターネットという世界でも、仲良くなれば、リアルの世界との境界線はなくなる。コミュニケーションの手段がネットを介しているだけであって、リアルの人間関係と変わらないものになっていく。

度重なるオフ会の誘いを僕は断った。それは、障害を持っているから、という理由は隠して、忙しいであるとか、お金がないであるとか、言い訳めいたものを使ってオフ会を拒んでいた。そんな関係を一年は続けていたと思う。

僕が相手の立場なら、こう思うだろう。
「なんで、会ってくれないんだろう。信用されてないのかな」
僕は悩みに悩んだ。
現実とは隔絶されていると思っていた、このインターネット空間もまた現実なのだ、と思い知らされた。

自分が障害を持っていることを打ち解けるべきか。
しかし、打ち解けることによって、過剰に優しくされることは僕の本望ではなかった。それから逃げたくて、インターネットの世界に没入していたのだから。

ただ、僕は良心の呵責に苛まれてやまなかった。

僕が、一年近くかけて、打ち解けていったと思っていたものは、偽りの自分で、本来の自分というのは、まるで違う。

仲良くしたいと思っていた仲間に、嘘をつき続けていたこと、に申し訳ない。

現実でも、インターネットでも、どちらも別の殻をかぶっている自分は、一体、何者なんだ。

___僕は、障害者なのか、健常者なのか。


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