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チーズビットというやつ

あの季節が、やってきた。

誰しもが忘れていたころに、街に散見し始めるアイツが今年も来た。いや、来ていたらしい。ここ数日の自粛ムードも浸透していなかった時代から、期間限定という自主規制を謳っている、先見性に満ち溢れたアイツの名はチーズビットだ。

忘れていたというには、語弊があるかもしれない。忘れていたことすら、忘れられている存在感なのだ。その存在感というのは心身ともに、非常に薄い。

「チーズビットって、知ってる?」と聞いても、合点のいくものは少なく、食べてごらんと差し出しても、合点がいかない。ひとつ口にしたところで、ふうん、という言葉のほかに紡ぐものが見つからないほど、マイノリティーにもマジョリティーにも評価されない難民的なお菓子、チーズビット。

今年のチーズビットな攻めに攻めている。あとをひく、かる~いお菓子というこれまで積みあけ出てきた、ストロングポイントを、いったん捨てて、濃厚チェダーチーズ味にしてみるという、迷走に走った。

だが、変わることの勇気に僕は称賛を与えたい。失敗したっていいじゃないか。それが未来への糧になるなら安いものさ。来年、また頑張ればいいのだ。

励ましと敬意と期待と不安という複雑な気持ちと相対して、口に入れたチーズビットという代物の味は単純明快だ。例年のものと、なんら味の違いが判らない!
一年越しの変化を感じられるほど、一年前のチーズビットのについて、覚えてない悲しみが心にしみる。ただ言えることは、味が薄い。

濃厚とは何なのか。濃厚さをウリにしていない、カールやスコーンにすら味の濃さで負けているではないか。口だけ、じゃんか。ただ、お前の口どけは好きだ。

ここで、チーズビットの楽しみ方を、ひとつ。

周りに人がいないことを確認して、無心に、大袈裟に口を開けて、咀嚼していただきたい。わたしは、育ちが悪いです、という断固たる意志と忸怩たる思いを胸に、クチャクチャ食べてほしい。すると、どうだろうか。楽しくなってこないだろうか。

チーズビットは音を楽しむお菓子だ。そして舌にあたる感じが優しい気の遣えるいいやつだ。

良い子も悪い子も、ぜひとも、真似して、お行儀悪く、チーズビットを食べてみてほしい。


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