見出し画像

VR健常者#5 「友達」

これは僕がインターネット上で健常者として過ごしてきた日々を綴るマガジンだ。まずは、軽く自己紹介をさせていただきたい。

現在、脊髄性筋萎縮症という難病を抱えており、食事や排せつ時以外はほぼ寝たきりの生活を送っている。いわゆる、身体障害者だ。こうして、文字を打ち込んでいる今も寝たままだ。テクノロジーの進化に伴い、寝たままでも出来ることが増えた。なかでも、電子書籍の普及は、紙の本のページをめくれない僕にとって大変ありがたいものであった。
そして、外に出なくとも自分を発信できることが何よりも大きい時代の進化だ。外に出なくとも、人とのコミュニケーションを図れる喜びは、筆舌に尽くしがたいものがあった。
そんな僕が、あえてリアルの生活とは乖離して健常者として過ごしたネットライフをここでは紹介していきたい。


自分が大学に進むという進路が決定して、高校をまもなく卒業するころ、僕は、自分というものについて、改めて考え始めた。

自分の中にある、ふたりの自分について。

まずひとつは、障害を持っている自分。障害者であることにコンプレックスを感じつつも、それを理由に挫折したくはない。根っからの負けず嫌いの自分。工夫や努力さえすれば、勝負できるところでは、健常者に負けずとも劣らないもの(スポーツはできないが、勉強やゲームで対抗できていたことが自信となって)を自分は持っているということ。
ただ、こうした劣等感から生まれる、ハングリー精神は、おおやけにするべきではないと思っていた。あくまで、人というものは健気で、殊勝で、前向きな人間を好むと思っていたからだ。

もうひとりの自分は、コンプレックスの一切を捨てた自分だ。自分が障害者であるということを強制的に忘却して、健常者としてインターネットで振舞う自分。
身長は172センチメートル、体重は60キログラム。部活は中学まで野球部に所属していたという、もっとも、ありふれていそうな人間像を思い浮かべて、演じきっていた。
自分が好きな自分で在れること。それは、自信にも繋がった。自分の思い描くコミュニケーション方法をとれば、誰とでも打ち解けられるんだ、と思っていた。

しかし、特定の人と仲良くなればなるほど、それは、自分自身を好きになってもらっているのではなく、あくまで、演じた偽りの自分を好きになってもらっているのではないか、という疑問に、僕はたどり着いてしまった。

インターネット上に知り合いができた。一年半かけて築いた、ここぞという時の信頼関係、基本的に雑な言葉選びの中にある温かみ。僕の知ってる友達がインターネットにいた。

ただ、僕の頭にこびりついて離れない疑問がある。この友愛の矢印の先にあるのは、演じた自分なのではないか、という疑問。

この疑問が離れない限り、僕は良心の呵責に悩まされ続ける。インターネットだからこそ、様々な心の壁を取っ払って、深い絆を結ぶことができるのに、自ら絆を結ぶことを放棄して、リアルの自分と同じことをインターネットでもやっているのではないか。

つまり、ネット上でも、別の殻に閉じこもって、人からよく思われようとしてるだけで、本質的なコミュニケーションをとろうとしてないのではないか。

僕は裏切っていると思った。相手に対して、申し訳ないという気持ちと、それ以上に、今の自分に耐えられなかった。独りよがりな自分の承認欲求を満たすために、他人を巻き込んでいることに罪悪感を感じていた。

僕がひとつだけ、伝えたかったことがある。決して、軽薄な関係を望んで、一年半、付き合い続けていたわけではない、ということ。それだけは、わかってほしかった。

嫌われることを覚悟して、僕は今まで包み隠していたことを告白しようと、決意した。

当時、特に仲の良かった五人に僕は個別に打ち解けた。反応は、それぞれ、だ。
重い事実をどう受け止めてよいかわからず、それでも「言ってくれてうれしい」という友達。
取るにたらない話を聞いた、という態度をとって、あっという間にいつも通りの話をする友達。
悩みを克服して、前に進む様を応援してくれる友達。
何でもっと早くいってくれなかったんだと、熱い友情論を語る友達。
会おう、と突飛な提案をしてくる友達。

誰一人として、僕と縁を切ろうと言う人はいなかった。今考えれば、縁を切るなんてことを言えるわけないな、と客観的に思うのだけれど、当時の僕は、呪縛が解かれた気がして、肩の力が抜けたし、安心したし、嬉しかった。


長かったけれど、やっと、友達ができた、と思った。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?