「書く」をリハビリする
バックボーンのない人間の文章を果たしてヒトは読むのだろうか?
僕が今、書き綴っているこの段階で、インターネットという枠組みの中で僕の背負うべき人間背景はゼロだ。
なんなら、マイナスと言ってもよい。何もない人間の戯言を聞いてもらえるほど、世の中の人は暇でない、と揶揄されてもおかしくない。あるいは、偉そうなことを言い出しそうな雰囲気さえ感じられているかもしれない。
軽いジャブ的な被害妄想に駆られつつも、僕が筆を執るに至ったのには理由がある。つい今しがた読了した宇野常寛著「遅いインターネット」の影響だ。
本書の中で宇野常寛氏は、情報化社会が発達しすぎた(あらゆる情報を高速に受信できるようになった)がゆえに、国民のほとんどが思考する猶予を与えられる間もなく、質の良し悪しもわからない知識を次々に無抵抗に自分に都合のいいように享受し、即、発信する現代社会に異を唱えている。
我々にとって必要なコトは、卓に並べられた情報という名の料理群をわんこ蕎麦的なノリで胃に流し込むのではなく、情報の一品一品を咀嚼し、風味を感じ、「アナタ」の感じた「味」を述べるコトである、と。
これは、あくまで読み込みの浅い現段階の僕の捉え方で、その実、まったく別の尺度で語られた話かもしれない。ただ、言えることは僕は宇野常寛氏に感化された。自分の言葉で自分の物語を発信したくなったし、他人の物語に自分の物語を付随させたいと思った。
思い立ったが吉日で、Twitterとnoteをまず登録した。宇野常寛氏よろしく、僕も走り出した。行ってみよう、やってみようの精神で。
何を書いていこうか特に決めてはいないが、とにかく走り「書く」。
そして、このnoteの背景のように白い自分のバックボーンに少しでも色を付けていくことをここに決意表明する。
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