車椅子で歩けない僕は体育がなにより好きだった

好きな授業は何ですか?
好きな科目は何ですか?

子どもの頃に何度か聞かれたことのある質問だ。活発で、快活な子供たちは、その質問に対して、こう答える子が多いのではなかろうか。

体育が好き

体育は、子供たちの有り余った元気を放出するにうってつけだ。この体育という時間に、自分の元気を、最大限、放出して、残りの授業は、寝るもやむなし、という鉄板行動を多くの人たちは、してきただろう。

僕も体育が好き派閥のひとりであった。
ただ、僕は体を動かすことが好きという理由で、体育を好きだったわけではなかった
そもそも、僕は先天的な難病を抱えており、歩けなかったため、体育の授業は見学してるだけであった。

そんな僕が、体育を好きだった理由は、ふたつある。

まずは、外に出ることに理由ができるからだ。
普段の生活で、外に出ることほとんどない。友達と遊ぶにしても、家でゲームをすることがほとんどであるし、登校は車で送り迎えをしてもらっていた。

買い物だって、なになにを買ってきてで済まされる。コンビニぐらいの買い物なら、わざわざ、車椅子を外に持ち出すのも煩わしい。そのために、外に出る口実というのは、なかなか、見つからないものだった。

そんな僕に、体育という授業は、僕に外に出るという理由を明確に与えてくれたのだ。こんなご時勢だからこそ、理解されるかもしれない。自粛という閉塞感に心が沈んでしまう方。インドアだと思っていた自分が、何気なく外に出てたことに気づいている方。

普段当たり前のように外に出て、「何か」のついでに、青空を見てること。「何か」のついでに、太陽の光を浴びていること。「何か」のついでに、人とのコミュニケーションをとっていたこと。

僕にとっての「何か」が体育の授業だった。夏は灼熱の日にさらされて、熱中症のリスクが高まるし、冬は極寒の冷気に脅かされて、風邪になるリスクが高まる。図書館で、本を読んでいた方がよいではないか、という提案も何度もされたが、僕は断っていた。
時には、ぬかるんだグラウンドに車椅子のタイヤが汚されて、迷惑もかけてしまったけれど、僕にとって体育の時間というのは、開放感を得るという意味で大事な時間だった。

青空を見たいであるとか、外の空気を吸いたいといった、詩的な表現じみたものに頼らずして、僕は外に飛び出したかったのだ。


そして、もうひとつの理由というのは、みんなの笑顔を感じられるからだ。

僕は体育の授業の中でも、とりわけ、ドッジボールの授業が好きだった。ボールに当てられまいとして、枠線の中を縦横無尽に駆け回り、跳ねたり、しゃがんだりしてる姿は、無垢であった。

作りようのない笑顔が僕の視界には広がっていて、つられて僕も笑顔になる。決められた枠の中に無数の笑顔が散りばめられている。
自分も、この狭い枠の中にいる感じがするのが、好きだった。

これが、鬼ごっこやサッカーであると、枠が広すぎて、僕の五感では感じえないところに笑顔があるから、その楽しさを共感できなかったのだ。

たまに、審判役をやってみたりして、ホイッスルを吹く。
自分がピーッと鳴らすと笑顔が生まれる。より輪の中に自分がいることを感じられる。今度は、つられて笑ってるんじゃなくて、自分も無数の笑顔のひとにいる感じがする。

___体育ほど楽しい授業はないや。でも、算数が好きな科目って言っておこう。

今や、外に出る口実がないと、世間から冷たい視線を浴びるし、思いっきり友達とはしゃげる空間がなくて、憂鬱な子たちも多いと思う。

早くコロナ時代が収束して、街にあの日の笑顔があふれることを、切に願う。

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