私の中のミソジニー
かつて、私はかなりのミソジニストだったと思う。まだミソジニーという言葉も知らなかった頃の話だ。
そんな私のミソジニーの話をしようと思う。あくまで私の話なので、ミソジニスト女性が全て私のような考えとも思わない。ただ、重なるところがある人もいるだろう。何かの参考になれば幸いである。
私はずっと「自分は特別な存在である。他の人、他の女子とは違う」と思っていた(死ぬほど恥ずかしい中二病の告白である)。こぞって同じアイテムを身につけ、同じ部活に入り、同じ言動をして安心するような没個性的な女子集団を軽蔑し、そこから独立した主体性のある人間として生きていることを誇りに思っていた。未だに、自分の考えをしっかり持たずに周りに合わせているような女性を積極的に嫌うことこそないものの、あまり仲良くなれないとは思う。私の中のミソジニーは、そういった主体性のない言動への嫌悪から始まっていたように思う。
私は女性差別に気づいていたわけではなかった。女子は男子より優秀だと引かれるだとか、そのくせ謎に同じ私立中学の合格偏差値が女子の方が高いことに特に疑問を抱いていなかった。「そんなものだろう」と当然のように思っていた。何か歯の間にはさまっているような、かすかな違和感と不快感はあったかもしれないけれど、ないもののように考えていた。
そんな私が没個性的な女子達を軽蔑して、独りでいたかと言えばそうではなかった。集団の中で完全に独りというのは寂しいし、あえてそうするほどメンタルは強くない。個別に仲良くする女子はいたし、4,5人の小さな仲良しグループはあった。
そんな中で小学生時代を過ごし、中高時代は一般的な基準から大きく外れたような個性的な同級生ばかりだったので、ここでは割愛する。
大学で再び共学になり、私は「従来の型にはまらない女子」でいたかったし、そう振舞った。自分の考えを持ち、自分の好みを大事にし、周りに流されない。そのこと自体は今もいいことだと思うが、それを意識し過ぎた結果、そうでない女子を見下して自分を「男性にとって話が解るやつ」というポジションに持っていった。これが私のミソジニーの始まりである。
自分の過去を振り返って思うのは、自分のことをミソジニストだと思っているノンフェミ女性はおそらくあまりいないのではなかろうか。私は特に思っていなかった。むしろ女性差別社会であることもあまり意識していなかった。セクハラを男性と一緒に笑い飛ばし、「気にしない豪快な女子」でいる自分が好きだった。細かいことを気にしていちいち文句を言う女性をうるさくて疎ましいと思っていた。本当に恥ずかしい限りだが、過去の自分を掘り下げることによって、自分の中で色々と整理されたり、今問題となっているノンフェミ女性達の気持ちに少しでも近づけるかもしれないと思ってあえて試みる。
ミソジニストだった当時、フェミニストという言葉もあまり意識していなかった。特にアンチフェミという形も取っていなかった。フェミニストのように主張が強い人よりも、群れて没個性的な女子の方が私にとっては疎ましかったので、アンチフェミ女性とは考えが違うのだろう。
自分独りで意見を表明せず、集団で抗議するというスタイルに嫌悪感があった。それはme tooに反発を感じる人に通じるものがある。セクハラや性犯罪について真剣に考えてこなかった、むしろ「私は平気、気にしない」と被害者女性の声を無視してかき消す、まさに自分が今問題視しているミソジニスト女性だった。
今、アンチフェミの立場を取る人々はこういう心理なのではないか。自分でよく考えもせず、ワーワー集団で中身のない自分勝手な主張をする迷惑な女性達。彼女らの主張の内容を吟味もせず、ただうるさい雑音として退ける。現に、フェミニスト達の声を彼らはよく聞いていない。理解していない、しようとしない。ただ「何となく」嫌悪して反発している。
でも考えてほしいのは、果たして彼女ら(今では自分も含む)がここまでアンチフェミに粘着され嫌がらせされてまで、集団で主張するメリットはあるのだろうか。自分の頭で考えず、社会問題や二次元を問わず様々なことにただ粗探しをして文句を言っているのか。何となくの嫌悪感で粘着嫌がらせをするのは虚しくないのか。
それこそ、自分の頭で考えていないのはアンチフェミの方なのではないか。彼らには明確な主張がない。ただフェミニストを潰したいだけの反対勢力。
それが解れば大して傷つかない。少なくとも私は、アンチフェミに関して自分なりに色々分析して考えた結果、特に恐るるに足らない悲しく虚しい人々だと思っている。もちろん傷つく人を否定しているわけではないが、彼らの言動には全く正当性がないので、フィルターをかけて排除しても全く問題がないと思う。相手にするだけ無駄である。
対話して解り合えると信じる気持ちは尊く素晴らしい。でも期待し過ぎて、自分が嫌な気持ちになることもある。時には相手を見限り、無視することも必要だろう。
そんなわけで、私は私の中のミソジニーと向き合い、そして今後もまた自分のミソジニーと出会ったら、丁寧に排除していこうと思う。