『空中都市アルカディア』29
第四章 白いピラミッド
一、神の剣
シロンとライオスはエンペドクレスの飛び込み台の上で地面を叩いて悔しがった。
「ちくしょう、なんで死ぬんだ。死んだらおしまいじゃないか」
ライオスは草をむしり取って泣いた。シロンは涙を流して言った。
「バカだ、バカだ、バカだ、アイリス、おまえはバカだ。頭が良すぎるんだよ。育ちが良すぎたんだよ。でも俺はそんなアイリスが好きだった。初めて見たその日から」
「俺もだ、シロン。俺もアイリスに惚れていた。アイリスはおまえと結婚すると思っていた。だから俺はマリシカと付き合おうかと思ったこともあった。だが、本当の気持ちは常にアイリスにあった」
「シマクレスの言ったようにアイリスは世界最高の女だ。シマクレスはそれを手に入れた。俺たちの目の前で」
「俺たちはアイリスの心を掴むことはできなかったんだ。しょせんは下界人だ。罪があるとはいえ、シマクレスのようなスーパーエリートこそがアイリスの望む男だったんだ」
シロンは泣きながら自分を笑った。
「俺たちは昔からバカな理想主義者だったな。アルカディアに憧れて生きてきた。そして、ここアルカディアで理想よりもっと大切な物を失った。その大切な物、それはアイリスだ。理想の女?いや、違う、ただの理想じゃない。理想の女なら条件が揃えば、代わりはいくらでもいるだろう。だけど、アイリスはひとりしかいない。アイリスがアルカディア人でなくとも俺はアイリスを愛していたはずだ。人を愛することは理想を愛することとは違う。でもアイリスは俺の理想の女だ。なんだ?俺の言ってることは支離滅裂だ」
ライオスは呟いた。
「俺はこのアルカディアを破壊したい」
「え?」
「操縦席があるんだろ?」
シロンは驚いた。
「なぜそれを知っている?アカデメイアの学生しか知らないはずだ」
「シロン、おまえも単純だな。俺は行政長官オクティスの護衛官をやっていたんだ。その程度の知識は入ってくるさ。操縦席はあの白いピラミッドの中だろ?」
ライオスは涙を流しながらニヤリと笑った。
シロンは驚いた。
「え?それは俺も初めて聞いた」
「あのピラミッドの中の操縦席をぶっ壊せばアルカディアは墜落する。アルカディア人はこのふざけた理想郷と共に死ぬんだ」
ライオスは走り、自分のエンジ色のホバーボードを拾ってそれに飛び乗った。
シロンは言った。
「おい、ライオス、待て」
ライオスは猛スピードで去って行った。
シロンは走ってライオスを追いかけた。走りながら考えた。
「俺はどうしたいんだ?ライオスの破壊行為を止めたいのか?いや、そもそもライオスはどうやってあの白いピラミッドの中に入って操縦席を破壊しようというのだろう?俺はアルカディアをどうする?破壊か?守るか?なんのために俺は走っているんだ。目的もなく走っているのか?ライオスはアルカディアを破壊するためにホバーボードを走らせている。俺はどっちなんだ?いや、まず大事なのはこのアルカディアにいる人の命だ!とりあえずホバーボードだ。俺のホバーボードはユラトン教授の家にある。ユラトン教授の家に行こう。そうだ、ユラトン教授にあのピラミッドの秘密を訊こう。あの人なら何か知恵を貸してくれるかもしれない」
その頃、ライオスはホバーボーダーの仲間たちとその支持者を率いて大きな凱旋門の北側になだれ込み、白いピラミッドに通じる神殿を襲撃していた。ライオスは人々に呼びかけていた。
「俺たちホバーボーダーは、シマクレスの残した法律によって排除される。そんな法律を決めてしまうこのアルカディアの政治システムなんかくそくらえと思わないか?この聖域を占拠し、革命を起こそう。アルカディア人と下界人の区別さえ失くしてしまおう」
すると、それまで既存の政治システムに不満を持っていた、下部の住民たちの一部が立ち上がり暴徒となった。
ライオスは思った。
「そうだ、それでいい。そして、アルカディアはエーゲ海に沈む」
ライオスはひとり、白いピラミッドの前に出た。後ろの神殿では戦いの騒音が聞こえている。ライオスは表面がツルツルの大理石でできたピラミッドの頂点を見た。
その頃、シロンはようやく、ユラトンの家に着いた。
「先生、俺のホバーボードを取りに来ました」
「おう、シロンか。さっき、ライオスという若者が来てな、いきなりこんな質問をしてきたんだ」
「どんな?」
シロンはボードを抱えて家から出ようとして振り返った。ユラトンは言った。
「アルカディアを沈ませる方法はあるか?と訊いてきたのだ」
「え?それでなんて答えたんですか?」
「わたしは教えてやった。白いピラミッドの北側に操縦席への入り口がある。だが、そこは開かずの扉で閉ざされている。その開け方はわたしにもわからない。だが、アルカディアの沈め方は別にある。白いピラミッドの頂点に避雷針のように剣が一本刺さっている。神の剣と呼ばれている。それを抜けば、アルカディアは斥力を徐々に失い、下界へ落ちるだろう、そう教えてやった」
「え?それは真実ですか?」
「うむ、真実だ。わたしは真実しか教えない。真実を教えるのがわたしの務めだ」
「バカ!」
シロンはホバーボードでユラトンの家を飛び出した。大きな凱旋門の北側のアゴラは騒然としていた。人々が殺し合っていた。アルカディアの既成秩序を守ろうとする側と、それを壊そうとする側だ。シロンはそれを見て思った。
「俺はどちらの味方なんだ?俺はアルカディアの沈没を防ごうとしてるから、既成秩序を守る側か?それとも愚者とアルカディア人の境い目を失くしたいから既成秩序を破壊したい側か?いずれにしても、ライオスの行動を止めないと今殺し合っている人々のどちらも全滅だ。命があってこその争いなんだ」
シロンは争う人々を躱しながら、ドーリア式の神殿に入り、その奥にある白いピラミッドに向かった。
白いピラミッドでは、ライオスがひとり、ホバーボードでそのツルツルの斜面を昇ろうと苦労していた。その傾斜角度はホバーボードで駆け上がるには急過ぎる。ピラミッドの高さは約三十メートルある。ライオスのチックタックフライでは二十メートルは昇れるが、残りの十メートルは昇れない。何度昇っても、あと十メートルというところまで行って、滑り降りて来てしまう。
「ちくしょう、あともう一息なのに」
ライオスは下から頂点を見上げ、額の汗を拭った。
そこへシロンがやって来た。
「ライオス!」
シロンの声は神殿に響いた。ライオスはシロンを見た。シロンはドーリア式の回廊の太い柱の間に立っていた。ふたりの距離は二十メートルある。
ライオスは言った。
「シロン!」
シロンは言った。
「おまえはこのアルカディアを滅ぼすつもりか?」
ライオスは答えた。
「そうだ、俺は神の剣を抜き、アルカディアをエーゲ海に沈める」
シロンは言った。
「おまえはアルカディアが宇宙船であることは知っているか?」
「知っている。故郷の星は愚者ばかりだそうだな」
「愚者ってなんだ?」
シロンは言った。
ライオスは答えた。
「俺のような人間のことだ」
シロンはニヤリと笑った。
「わかってるじゃないか」
ライオスはシロンに言った。
「おまえは自分を愚者と思ってないんだろ?アカデメイアの学生さん」
シロンは言った。
「俺は愚者などこの世にいないと思っている」
「シマクレスは賢者だったと思うか?」
ライオスのその質問にシロンは答えずに言った。
「アルカディアは俺たちの目標、人生そのものだったはずだ。俺は六歳のとき、リカヴィトスの丘で父親とこの島を見上げて誓ったんだ。いつかこの島に来ようと。学問によって。上手く父親に騙されたとも言えるかもしれない。だが、俺はこの人生、後悔はしていない」
ライオスは言った。
「それはおまえが前途あるアカデメイアの学生だからだろ?」
シロンは答えた。
「俺はアカデメイアを退学し下界に帰る」
「なに?」
「でも、アルカディアは沈ませない」
「なぜだ?」
「とりあえず、今、アルカディアにいる人々の命が大事だからだ。それともうひとつ個人的な理由としてアルカディアは俺の理想だからだ。いや、俺たちの。ライオス、おまえの理想ではないのか?アイリスだってこのアルカディアを理想郷と思っていた。そのために美しい絵画を描いて俺たちに見せてくれたじゃないか」
「でも、理想郷なんて実際はただの夢だったじゃないか。違うか?シロン」
「夢でいいじゃないか。その夢があるから人生はおもしろいんだ」
「おまえは、アイリスを失ったのにまだ、夢や理想が大事だとか言うのか?」
「ああ、大事だ。それがなければ生きていてもおもしろくないだろう?」
「俺はその夢と理想を破壊する」
「はやまるな、ライオス」
「もう遅い。俺は騒乱を起こした。このままおとなしく逮捕されたら死刑だ」
ライオスはホバーボードに乗って四角錐のピラミッドの斜面を登り始め、チックタックフライを始めた。
「待て!ライオス!」
シロンもホバーボードでチックタックフライを使って追いかけた。ライオスは二十メートル駆け上がるとそれ以上上がれなかった。そこへシロンが昇って来た。ライオスはシロンに上からクラッシュし、その反動で残りの十メートルを跳び上がった。シロンはピラミッドの斜面を転げ落ちた。
ライオスはピラミッドの頂点の神の剣の柄を握った。
「これが、神の剣か。これを抜けばアルカディアは落下するんだな」
下に落ちたシロンは地面に倒れた状態で上を見上げて言った。
「やめろ、ライオス!」
ライオスは腕に力を込め、剣を抜き始めた。
「うおおおおお」
ライオスの力で剣はゆっくりとその白刃を現した。
ライオスは剣を抜き上げ、空にかざした。
すると、アルカディア全体がゴゴゴゴゴと大きな地響きを立て始めた。沈み始めたのだ。
「やったぞ、これでアルカディアもおしまいだ!」
そう言ったとき、ライオスは下を見た。シロンがチックタックフライで昇ってくる。
ライオスは憐れむような苦い笑みを浮かべて言った。
「シロン、いくらおまえでもここまで昇るのは無理だ」
「ライオス。俺は誰だ?おまえにホバーボードを教わったとき、おまえは俺を天才と呼んだ。その俺だ!」
シロンはなんと三十メートルの上空に駆けあがった。
ライオスは驚いた。
「そんな、バカな」
シロンはライオスに飛びつき神の剣の柄を握った。シロンの黄色のホバーボードはシロンの足から離れてピラミッドの斜面を滑り落ちていった。シロンはピラミッドの頂点でライオスから剣を奪い取ろうと力を込めた。
「やめろ、シロン」
ライオスとシロンはバランスを崩し、剣を引っ張り合いながら、ピラミッドの斜面を転がり落ちた。下まで落ちたときシロンの手が離れ、シロンは地面に転がった。シロンはライオスを見た。少し離れたところにライオスはうずくまっていた。シロンは驚愕した。ライオスの腹から背中を神の剣が貫いて、白かった制服は赤く染まり、地面は血まみれになっていたのだ。奪い合いの中で剣は刺さってしまったのだ。
シロンは駆け寄ろうとした。そのとき左足に激痛を感じた。
「くそ、折れたか・・・」
シロンは左足を引きずり、ライオスの傍らにしゃがみ込んだ。
「ライオス、しっかりしろ」
ライオスはうずくまったまま、シロンを横目で見た。
「シロン、俺は愚者か?」
シロンはライオスの死がすぐそばにあることを知って言った。
「心配するな、俺も愚者だ。たぶん、アイリスも」
「そうか」
ライオスは微笑して息絶えた。
アルカディアは降下し続けている。シロンには時間がなかった。
シロンはライオスの腹から剣を抜いた。これを再び、ピラミッドの上に差し込まねばならない。
シロンは自分の黄色のホバーボードを拾い、足を掛けた。そして、ピラミッドの頂点を睨んだ。
「さっきはチックタックフライで昇れたけど今は無理だ。この左足では・・・でも、やらないと」
シロンは一度、ピラミッドから離れ、二十メートルの助走を取った。そして、チックタックフライで上空に駆けあがった。しかし、左足の激痛で、十五メートルも昇れなかった。そして、落下しそうになった瞬間、シロンはピラミッドの白い斜面に剣を突き立てた。そして杖で舟を漕ぐようにして、上に向かって勢いをつけた。すると、少し登ることができた。
「いける」
その方法でシロンはピラミッドの斜面約半分を少しずつ登っていった。
アルカディアはなおも降下している。
シロンはピラミッドの頂点まであと五メートルの所まで来た。そのとき、ピラミッドの下から群衆の声が聞こえた。暴徒だった人々もそれを鎮める側だった人々も、そこにいるすべての人々がシロンを応援しているのだ。いや、応援ではない、自分たちの命をシロンに託して叫んでいるのだ。
シロンはホバーボードを剣で漕いで残りの五メートルを登り切った。
そして、白いピラミッドの頂点の差込口に神の剣を差し込んだ。
すると、ゴゴゴゴゴ、という音は、グオングオンという音に変わり、どうやらアルカディアが再び上昇を始めたようだ。
下の群衆の声は恐怖の叫びから歓声に変わった。
シロンはピラミッドを滑り降りた。人々は彼を取り囲んで褒め称えたが、シロンは何も言わず左足を引きずって、まっすぐにライオスの死体の所へ行った。そこには行政長官オクティスがいた。
「君は英雄だ。よくやってくれた」
シロンは何も言わず、左足の苦痛に顔を歪めながら、ライオスの血まみれの死体を抱き起こした。
そして、シロンは言った。
「オクティス。ライオスと共に下界に降りたい」
オクティスは目を丸くして言った。
「君はアカデメイアの学生だろう?すでに英雄なんだ。将来は三権の長も確実だろう?なぜだ」
「俺はネオ・アテネの人間だ。俺はアルカディアに来てからよりも、ネオ・アテネで空を見上げているときのほうが幸せだった」
それから数日後、シロンはライオスの棺と共に空中列車で下界のネオ・イスタンブールに降りた。そこから列車でギリシャ半島の首都、ネオ・アテネに向かった。
〇
四年後の夏の終わりの午後、紺碧のエーゲ海の静かな海面をシロンは独り憂鬱な表情でホバーボードに乗って滑っていた。水平線上の青空に空中都市アルカディアが浮かんでいる。
(完)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?