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なぜブログを書くの?

私は最近、思ったことをすぐにnoteに書いて投稿している。
noteを始めた頃は、紙のノートにボールペンで下書きをして、さらにWordで清書して、noteにコピーアンドペーストするという作業をしていた。それが次第に、ボールペンではなくWordにいきなり書いて、コピペするようになった。そして、最近では直接noteに書くようになった。この文章も直接書いている。
私はツイッターにつぶやく人の気持ちがわからなかった。
思ったことをSNSでつぶやいて何の意味があるの?有名人ならば意味があるかも知れないけど、そう思った。
ようするにおまえのつぶやきなんか誰も興味がねーよ、と言いたかった。
友達と居酒屋でワイワイ騒いでいるさなか、ひとりスマホにつぶやいている人間の孤独。おまえはどこに住んでいるの?居酒屋か、それともネット空間か?
私の祖母はよく新聞に投書などしていた。私にはそれのどこに意味があるのかわからなかったが、たぶん、新聞や雑誌への投書や、ラジオへのリクエストなど昔からあるあれは、SNSの先駆けだと思う。
私は子供の頃は友達が多く、ネットなどもない時代、読書をしてインテリぶった人間は、本の中を生きていて、現実を生きていないという感覚があった。現実とは、目の前の隣人とコミュニケーションすることであり、どこかの誰でもないラジオのリスナーや新聞の投書欄などは非現実にしか思えなかった。
そんな私が今、こうしてnoteにブログをほぼ毎日投稿しているのはどういうわけか?
私は今、友達が極端に少ない。
日常的に友達と遊ぶということはまずない。
私の関心事は、私の小説が売れて有名になれるか、それだけなのだ。
中学生の頃から、マンガ家を目指し、二十代で小説に転向、そして、現在四十六歳、まだプロの小説家を目指している。
なぜか。
それは有名になりたいからだろう。
マンガ家の前は、プロ野球選手になりたかった。
あの中学生の頃、目の前の現実より、将来の夢に生きるようになった。
そして、いつのまにか、現実を見失った。
私の生きている世界はメディア空間であり、祖母の新聞への投書と同じレベルになってしまった。
友達がいない。
祖母も友達が少ない人だった。
祖母は観光地などで記念撮影するときは、必ず、モデルみたいに足を斜めに置いてカメラの前に立った。それも私にはよくわからなかった。
私は小説を書いて死後の名声を手に入れたいという黒い野心があるのだが、写真を撮るときは歴史上にどう残るか、を考えてポーズを取る。子供の頃、小学生の頃は、決まってVサインをして「イエーイ」などと言っていた。写真はたしかに残したいものだが、死後の名声など小学生の頃は考えていなかった。そのほうが幸せだった。
小学生の私には客観的に自分を見つめるという視点がなかった。
客観とはなんだろう?
誰かから見た視線のことだろうか?
大昔から日記を書く人がいるが、そういう人は、誰に向けて日記を書いていたのだろう?
一般の有名でもない庶民が日記を書く意味はどこにあるのだろう?
誰がそれを読むのだろう?
誰も読まない日記を人はなぜつけたのだろう?
現代のブログ(ウェブログの略らしい)は不特定多数の人が見ることのできる日記だ。昔は秘密に隠していた日記だが、今では世間の衆目の下にさらけだす文章になった。明確に不特定多数に向けて、つまり読まれること前提で書いているのだろう。
結局、誰かに自分の存在を認めて欲しいのだろう。
居酒屋で盛り上がっている最中に、スマホでつぶやいている人は孤独な人だ。
フォロワーが何人いようと、孤独な人だ。
それは有名な小説家にも言える。
小説空間は現実ではない。
小説が売れて、世人が小説家を知ったとしてもそれは小説を知っただけであり、小説家自身を知っているわけではない。
サイン会などやっても、そこには奇妙な、小説空間と現実が交錯する場になる。しかし、そのときの小説家はただのタレントのようなものだ。
有名だから、メディアに出ているから、それは現実世界の自分ではない。
共に笑い、共に泣く、そんな人生を共に生きる隣人がいることが人生の歓びであり、ブログなんぞ書いて、スキをいくらもらえたとか、そんなことで一喜一憂している人生は、現実の人生ではない。
学校の勉強は、紙やタブレットの世界の内部に人間を引きずり込みやすい。
学問は、ギリシャの賢人、ソクラテスのように、誰かと話し合って考えることが大事なのだ。ひとりで読書をたくさんしました、というのはあまり豊かな学問経験ではない。
学校の教室で、みんなで頭を寄せ合って考え議論して答えを導き出そうとしているときに、一番後ろの席でこっそりスマホに実況中継みたいにつぶやく生徒がいたら、それは現実空間の学問を拒否して、メディア空間の監獄に自らを投じているに過ぎない。
学校が今後どんなふうになるかはわからないが、みんなで集まって話し合う、そんな場は人間にとって必ず重要になってくる。
友達は大事だ。
家族も大事だ。
隣人が大事だ。
直接会うことが大事だ。

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