見出し画像

即興短編小説を書いて思うこと

私は現在、即興短編小説をたくさん書いている。
即興というのは書きながら物語を考えているという意味だ。
推敲はほとんどしない。
書いたその日に投稿する。
それで何が鍛えられるか?
たぶん長編を書いて鍛えられる能力とは違う部分が鍛えられると思う。
短編は物語としてのまとまりを作りやすい。
つまりどんな物語であったかと後から想起しやすい。
長編も後から想起するとき、読者は短編と同じように要約して想起する。
そうなると想起したときは短編も長編と同じ価値を持って現れる。
したがって、長すぎる小説、大長編小説は後から想起されたとき、大長編であった意味を失う。読んでいるときは面白くとも、読み終わってからは短編と同じようにひとつの物語としてまとめられてしまう。
したがって、長編は映画みたいな長さ、私の読む速度で半日で読み終えるくらいの長さがいいと思っている。
ところで、即興性は物語を作る人間としてどれほど重要なのだろうか?
この即興性とは書くだけではなく、語る場合でも使える能力である。
発話することで即興的に物語を語っていく能力は、予め調べたりプロットを立てたりして書く小説とは別の能力だ。語っている現在があるだけで、語りきった過去は消えていく。
それでも聞き手は、その物語に魅力があれば引き込まれる。
それは物語が文字で書かれる歴史時代以前の人間社会では当たり前だった。
声に出して物語ること、それができる能力こそ、もっとも小説家にとって重要な能力であるかもしれない。
それは哲学を小説で表現しようというような姿勢では得ることのできない能力である。
即興小説は一度読んだだけで少なくともその読んでいる時間だけは読者を夢中にさせねばならない。
何度も読み返してそこに組み込まれた意味を読み解く文学とは違う物である。
もちろん私は長編でも短編でも即興でなければならないと言っているのではない。
物語には即興性があったほうが、面白さが上がると言っているのである。
そんな即興小説を書いている私は将来の長編小説の書き方に即興性を取り入れていこうと思っている。
書き始める前に、あまり準備万端になってしまうと、物語が硬直して、主人公の行動、セリフを作者が恣意的に強要することになってしまうことがある。
この行為、このセリフにはどんな意味があるか?それを初めから決めてしまうと物語の流れが強引になりかねない。
物語は完成度が高い完璧なものより、欠点があっても即興性のあるもののほうが、読者の頭にすっきりと入っていくと思う。

いやあ、小説、物語とは奥が深い。
これからも創作を楽しんできたいと思う。

いいなと思ったら応援しよう!