『空中都市アルカディア』14
二、ヒポクラテスの園、カルスの姉ミレネ
ネオ・アテネの北西郊外の田園地帯の中に、ヒポクラテスの園という精神科病院がある。
花々がその精神科病院の白い建物を囲んでいる。よく晴れた穏やかな日だ。
シロンがホバーボードでそこへ行くと、玄関の前にカルスがひとり立っていた。
カルスは言った。
「この病院に俺の姉ちゃんが入院している。俺より四つ上の二十二歳だ」
カルスはシロンを導いて病院内に入った。受付で何やら話すとそのまま入っていいことを告げられた。建物の廊下を歩きながらカルスは言った。
「姉ちゃんはミレネという名だ。四年前にアルカディアに十八歳で行った」
シロンは訊いた。
「アカデメイアか?」
カルスは首を横に振った。
「俺の家の人間がそんな高学歴な進路を歩めると思うか?」
「じゃあ、なんだ?ホバーボードか?」
「違う」
カルスは言った。
「家政婦だ」
「家政婦?」
シロンはアルカディアへの行き方にそんな職業があるとは知らなかった。
カルスは続けた。
「十八歳で家政婦としてアルカディア自由市民の家で働くようになった。その家には十八歳でアカデメイアに入学したばかりの男がいた。名前はわからない」
食堂では何名かの入院患者と思われる人たちが飲み物を飲んだり会話をしたり読書をしたりするなどして過ごしていた。シロンはカルスのあとについて食堂を通り抜けた。病室が両側に並んでいる。すべて個室だ。ドアにはガラス窓があり中を覗くことができる。そのひとつにカルスはノックをして入った。シロンも続いた。
中にはトイレと洗面台があり、ベッドと机があった。東側には大きな窓がありその外にお花畑が広がっている。赤い髪の女性がひとり椅子に座り外に広がるお花畑をぼんやりと眺めていた。
カルスは言った。
「姉ちゃん、俺だよ、弟のカルスだよ」
女性は振り返って、カルスを見た。
「あなた、お帰り、早かったのね。食事にします?それともお酒を召し上がる?」
カルスは言った。
「そうだな、お酒はなにがあるの?」
女性は答えた。
「そうね、冷蔵庫に開けたばかりのワインがあったかしら」
シロンが見まわしたが部屋に冷蔵庫はない。
カルスは言った。
「ワインはいいよ。それより今日は人を紹介しに来たんだ」
彼女はシロンを見た。すると表情が急に変わった。彼女は言った。
「やめて!ごめんなさい!あなたの子は産めませんでした!わたしはお酒を飲み過ぎて流産しました!ごめんなさい!」
カルスは言った。
「落ち着いてミレネ姉ちゃん。この人は姉ちゃんの夫じゃないんだ」
「うそ、騙そうったってそうはいかないわ。あなたは夜な夜なわたしを愛した男、夫になるはずだったのに、わたしの失敗のために・・・、いや、そうじゃないわ。たしか、あなたがわたしにくれた薬、あれを飲んだら急に頭がくらくらして・・・あなたね!毒を盛ったのは!それでわたしは気が狂ったのよ。そうよ」
シロンには訳がわからなかった。
ミレネという女性は床にしゃがみ込み泣き始めた。
カルスは言った。
「姉ちゃん、あのペンダントはどこにあるの?」
ミレネは首に掛かっているペンダントを握り締めた。
「姉ちゃん、ちょっとそれを貸してくれるかな?」
ミレネはそれを首から外した。カルスはそれを受け取りシロンに見せた。それはロケットで、ふたを開けると写真があった。ミレネともうひとり若い男が裸で寄り添っている自撮りの写真だ。
「これは?」
シロンは訊いた。
カルスは言った。
「家政婦として入った家の息子だと思う。さっき言った十八歳の男だ」
カルスはシロンの眼を見て言った。
「わかるか?このストーリー」
シロンは首を横に振った。
「よくわからない」
カルスは言った。
「つまりこういうことだ。十八歳で家政婦としてアルカディアに昇った俺の姉ちゃんは、職場であるその家の息子に手を出されて妊娠した。息子は慌てた。アカデメイアの学生が家政婦の女に手を出して妊娠させるなどスキャンダルのはずだ。そこで息子は姉ちゃんに毒を飲ませ気を狂わせた。そして、下界へ降ろした。それがこの夏、つまりオリンピアの祭典のときだ。姉ちゃんはこの精神科病院に入れられ、子供は流産で死んだ」
シロンはカルスの顔を見た。
「それはおまえの作り話だろ?」
「そう思うか?この写真を見ても」
シロンは再びロケットの写真を見た。裸の男女が体を寄せ合ってこちらを見つめている。女のほうはカルスの姉であるミレネであり幸せと不安がないまぜになったような顔をしている。男のほうは育ちのよさそうな顔をしていて、笑っているがシロンにはなんだかその男が何を考えているのかわからない感じがした。
「この男に復讐したい」
カルスは言った。
「俺は四年後、オリンピアの祭典のホバークラッシュで勝ってアルカディアに行く。そして、この男に復讐してやりたい」
シロンは言った。
「復讐って、なにを?」
カルスは言った。
「殺すまではしない。ただ、一発クラッシュを喰らわしてから姉ちゃんの前に連れて来て謝らせたい」
シロンは独りで精神科病院ヒポクラテスの園からネオ・アテネまでの田園地帯の道をホバーボードでゆっくりと滑りながら憂鬱に沈み込んでいた。
家に帰っても憂鬱だった。ベッドの中に入っても憂鬱だった。
「アルカディアは理想郷じゃない」
では、自分はなんのためにアルカディアに行くのか。なんのために生きているのか?
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