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物語の美しさについて

私は映画が好きで、自身は小説を書いているのだが、映画の何が好きかと言うと、その物語の構造の美しさである。映画は約二時間で、観客を魅了し、感動させ、満足させなければならない。その二時間にすべてを込めるのである。そのため、物語が簡潔になり、良い映画ほど、あとから振り返ることができるように、物語が単純化されている。
私は子供の頃はアニメばかり観ていて実写はほとんど観なかった。なぜかというと、アニメは絵であるため、架空のものと割り切ることができるのだが、実写は俳優が演じているため、ある俳優が、別の映画に出ていた場合、「なんであの映画の主人公がこの映画の脇役で出てるの?」みたいになる、そこに抵抗があった。
そんな私にアニメ以外の映画の価値を認めさせたのが、十五歳の時にビデオで観た『荒野の決闘』という西部劇である。父親がテレビ放送を録画してあったのを観てみたのだが、オープニングからその演出に震えた。まるでディズニー映画を観ているようだった。いや、ここに実写への媒介としてディズニーが入るところがアニメ寄りなのだが、とにかく、この映画は、ディズニーランドのウエスタンランドに行った感動を思い出させた。この映画は西部劇の典型だと私は思っていて、「ある町にガンマンがやって来て、悪者を倒し、去って行く」この骨格があるものが、美しい西部劇だと私は捉えた。これを典型主義と私は呼び、この典型で他にあるのが、『シェーン』『荒野の七人』である。この典型主義というのは、言い方を変えれば、お決まりのパターンと言えるのだろうが、それを私はつまらないとは感じなく、美しいと感じるのである。お決まりのパターンでつまらないと思う人は、映画を何度も観ない人だと思う。一度観て面白いか、物語に意外性があるか、そこばかり注目してしまうと、二度目以降観た時につまらないと感じると思う。だから、私はミステリーはあまり好まない。犯人を知っていても面白いと思うミステリーが名作なのかもしれないが、私もいくらかミステリーは読んだが、犯人がわかってしまうと、事件の真相がわかってしまうと、もう一度読みたい観たいとはあまり思わない。
新しさ、とは成熟した物語文化の中では、つまらなさに早変わりする危険がある。新しいと思ったものが、伝統的な物語の構造に背くもので、二度目に読んだとき、あのとき読んだら新しいと思ったが、何年か経って読んでみるとつまらないと感じると思う。
典型主義は西部劇だけではなく、あらゆる物語に当てはまるもので、それは子供が親に読んでもらう絵本のように、眠る前の十分間で完結する短くまとめられるものこそ物語の基本ができている典型である。
本当の新しさとは物語に新しい典型を作ることだと思う。それは非常に難しいが、たくさん読み、たくさん観なければ、典型の基礎は自分の中にできず、そこから新しい典型は創造できないと思う。
ナラトロジー(物語論)というのがあるらしいが、物語を読まず、観ず、そのような学問から物語を研究するのは物語を作るものとしてはナンセンスだと思う。ナラトロジーを学んでから良い物語を作ろうとするのは、ボールの打ち方を本で学んでから初めてバットを握る野球のバッターみたいに愚かなことだと思う。
物語を学ぶとは、その理論を学ぶのではなく、良い物語を読み、観ることだと思う。よく読んで観て肌で良い物語を感じるべきだと思う。物語を作るのは理論ではない、感覚だと思う。
この文章で私が「典型主義」などと、理論めいたことを述べたが、これは野球選手が、バットの振り方を説明するときに少し理屈を入れるのと同じで感覚から出た言葉である。
最後にもう一度言うが、物語の美しさを感じるものは理論ではなく感覚であり、それは新しさや古さとは関係ない。古い物語は新しさがないから価値がないわけではなく、例えば、令和生まれの子供が、『ローマの休日』を古いから観ない、と言うのはもったいない話で、令和生まれでも『ローマの休日』を観ればそれは初めての経験になるから、まあ、『ローマの休日』に限らず、古くて良い物も観たり読んだりした方が、新しい駄作ばかり読んだり観たりするよりは充実した物語体験になると思う。映画の歴史は百年以上になる。物語の歴史は文字が発明される以前からすれば、人間が言葉を使うようになったときからある物だと思う。そのあまりに豊かな遺産を体験できない人生はもったいないと私は思う。

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