宮崎駿『君たちはどう生きるか』六回目を観て。デカルト、フッサール現象学
*ネタバレあり
宮崎駿の『君たちはどう生きるか』の六回目を観た。
二回は映画館で四回はDVDで。
『君たちはどう生きるか』は戦中戦後の日本を舞台にしている。まるで同じ世界に同監督の『風立ちぬ』があるかのような世界観だ。
『風立ちぬ』は前作だが、あれは最後の作品になるはずだった。
しかし、宮崎駿は『君たちはどう生きるか』を作った。
なぜ、ほとんど同じ世界を二作続けて作ったのか?
それはおそらく、宮崎の映画が私小説に寄って来たからだろう。
なぜ、私小説に寄って来たかというと、それを読むヒントはマンガ『風の谷のナウシカ』にある。彼はあの作品の結末で、「私たちは生きている、だから、生きねば」みたいな真理に到達した。それはデカルトが「私は考えている。だから存在している」という真理に到達したのと似ている。
アニメーター宮崎駿にとって、それは「アニメを作っている。だから、私は存在している」という真理だ。これは他の作家にも言える真理で、「人生とはなんのためにあるか?」とか「宇宙はなぜ存在しているのか?」など深いテーマを追求した作家の多くが陥る真理で、小説家ならば「なぜ私は小説を書くか」という私小説になる。マンガを描くのに没頭していた宮崎は、没頭することにより現実の生活を忘れていた。しかし、マンガ内の世界がなぜ出来上がったか追究していくと、結局は自分が作り上げた世界だ、と言うところに帰着する。それが、宮崎の「我思う故に我あり」で、それをテーマの一つのしたのが、『君たちはどう生きるか』である。主人公の大伯父は積み木で美しい世界を作っている。そして、まっさらな積み木(石)を十三個見つけてきたと言う。その十三個の石とは、宮崎が作ってきた映画のことだとすぐに誰もが気づくだろう。そこに宮崎の現象学がある。
現象学とはフッサールの「事象そのものへ」でお馴染みの哲学である。これは例えるなら、デカルトが「われ思う故にわれあり」と考えた思考がどんな現象なのか考える学である。
『ルパン三世カリオストロの城』『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』『となりのトトロ』『魔女の宅急便』『紅の豚』『耳をすませば』『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』『ハウルの動く城』『崖の上のポニョ』『風立ちぬ』そして、『君たちはどう生きるか』の十三作だ。
なぜ、自分はこれらを作ったか?
こう問うことで、アニメ作りがついにアニメ作りをテーマにしてしまった。
アニメという事象そのものをテーマにしてしまった。
それは宮崎駿の人生をテーマにしたようなものだ。
宮崎は『君たちはどう生きるか』で主人公に悪意と共に生きることを選択させる。そして、友達を作ると。
主人公は田舎の学校に転校して、ケンカをした。まだ友達ができる前のことだと思う。主人公は金持ちの坊ちゃんで、田舎の少年たちからしたら妬ましい存在だ。しかし、主人公は彼らと友達になりたいのかもしれない。主人公はいじめられるような気の弱い少年ではない。ケンカの直後彼は自傷行為を行っている。彼はケンカのある世界を選んだ。大伯父のところから帰れば戦争はある。貧富の格差もある。しかし、本の中の美しい世界は所詮、現実ではない。醜くても現実を生きたい。それが宮崎駿のマンガ『風の谷のナウシカ』からのテーマだ。それなのに、宮崎は夢のような美しいアニメの世界を作り続けた。何度も引退宣言をしてきた。彼は「アニメはやめとけ」と言いながら、「アニメって素晴らしいぞ」と矛盾したことを同時にテーマにしているのかもしれない。しかし、観客たちは「アニメはやめとけ」のメッセージより、宮崎の豊かな美しい別世界を求めて映画館に行くという、宮崎にとっては悩ましい現象を耐えねばならなかったかもしれない。
ジブリパークなどできているが、あれは手塚治虫以来多くのマンガ家が作りたかったディズニーランドに対する夢の国を、初めて実現させた物だと思う。
宮崎駿の思いは複雑かもしれない。
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