![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/43284496/rectangle_large_type_2_d867b26f898f616fe010d4fba1bc3722.jpg?width=1200)
心のリハビリワークを考えるための準備
私は自身の経験から、というか、二十代でデイケアに通いながら働くようになってから「リハビリワーク」という言葉を念頭に置いて仕事をしてきました。リハビリワークとは働くことで心が癒されていくような仕事のことです。例えば、私の場合、五年間パートで働いた園芸用肥料の袋詰めの仕事がそうです。その仕事は、単純で重労働でした。しかし、できない仕事ではありませんでした。本当に就職当初は症状が重く、常に頭の中で声や音楽が聴こえている状態でした。それでも親方に叱られながら仕事を覚えました。そのとき、とりあえずこの仕事を続けることで精神を鍛えようと思いました。この仕事をリハビリワークと位置付けました。会社のほうには病気を隠していました。だから仕事のできない私を親方は健常者として鍛えてくれました。それがじつにいいのです。障害者として働いていたわけではなく健常者として働いていたので、いつのまにか自分を精神病者ではないと錯覚するようになります。すると自信がつきます。思考の主体が障害者としての主体ではなく、社会人としての主体になって行きました。どういうことかというと、「僕は障害者だからその仕事は無理です」と甘えることは許されませんでした。甘えることは一概に悪いとは私は考えませんが、そのときの私は自分に厳しくなろうと決意していました。統合失調症を治すために覚悟しました。それでもこの仕事は肥料の原料が入荷されないと、不定期で休みになるところがよかったと思います。私は就労のためのリハビリとして就労支援施設などで働くことを飛び越えて就労しました。私は就労してからがリハビリだと考えました。私の地元ではパンを焼いて市役所のロビーなどで売ったりする就労支援施設が多いように思えました。なぜパンなのか疑問でした。そして、市役所のロビーで「障害者として」パンを売るために立つことは、私は絶対に嫌でした。同情の的になりさらし者にされるようで嫌でした。施設の職員の考えを聞けば、けっしてさらし者にしているわけではない、と言うでしょうが、私は当事者として、それを受け入れることはできませんでした。いわゆる健常者の福祉職員はどうしてもサポートする側の視点でしかものを考えられないと思います。
私は障害者手帳を持っています。ひとりでバスに乗るときや、映画館や美術館などに入るときに手帳を使います。そのときは障害者になります。それは懐事情がそうさせています。しかし、そういうときは受付の人が手帳を見るだけですから、まだハードルは低い。しかし、市役所のロビーで障害者としてパンを売るとなると障害者になった私の姿が多くの人の目に留まります。中には私が病気になったことを知らない同級生が来るかもしれません。そんなとき、私はどんな顔をすればいいでしょうか?また、私は油絵を描いていました。デイケアのソーシャルワーカーが「障害者の絵画のコンクールがあるから出してみたらどう?」と言うので、自分の絵を写真に撮って送ったことがあります。そうしたら入選して、絵が冊子に載り、パズルになって賞品としてもらいました。少しは嬉しかったですが、正直のところ微妙でした。よく、障害者の美術展などがありますが、私は絶対にそんなところに作品を展示して欲しくありません。ゴッホや山下清、草間彌生などは精神病者だから優れた画家なのではありません。いわゆる健常者と同じ土俵に立って優れているのです。
仕事の話に戻ると、一般の社会人と同じ土俵に立つことが、自分に自信を持たせると思います。自信を持って働くことは心のリハビリになります。一般人と同じように働いていることで、仕事をネタに会話することも可能になります。コミュニケーション能力が上がります。就労することが重要ではなくて、社会参加が重要なのだ、と社会福祉士の受験資格を得るための大学で教わりました。私の通うクリニックのソーシャルワーカーも、そう言います。しかし、私は障害者として社会参加することでは満足できないのです。「無理に働くことはない、お金を稼がなくても社会参加ができればいいよ」という温かい眼差しが嫌なのです。
そうは言っても、じつは働きたいと心の底から望んでいるわけではありません。本当は早起きは嫌だし、遊んで暮らせるならばそうしたい。でも、遊んでいるだけではいけない社会で、働くことが当たり前で、みんなが働いているから自分も働きたいのです。それこそが社会参加が大切となってくる肝でしょう。
しかし、病気を抱えている者は一般人と同じ仕事は難しいと思われます。しかし、ハードルを下げれば、一般人として、あるいは「健常者」として普通に働ける職種はいくらでもあると思います。なにも最初からデキのいい正規職員としてバリバリ働かなくともいいと思います。私のようにパート職員として単純な仕事をすればいいのです。そして、何年もかけて働くことで自信を得て行けばいいのです。生活のために障害年金を貰ってもいいと思います。働くことはお金を稼ぐことが目的ではないと思います。心のリハビリワークはその仕事をすることで精神の状態が回復していくことを目的とすべきです。回復したら、もっと違う仕事ができるようになりますから、そうなったら転職すればいいと思います。就労は夢を叶えることではありません。就労支援の会社の広告ページなどを見ると、就労支援施設でパソコンのパワーポイントが使えるようになり、実際に就労してからパワーポイントを使ってプレゼンができた、と言って喜ぶ障害者の例をマンガ化したものを読んだことがあります。それを見て私は違和感を覚えました。パワーポイントを使ってプレゼンができた、と喜ぶのはどういうことだろう?それは道具が使えたという喜びに過ぎないのではないか。問題は何をプレゼンするかで、その商品が売れたりして会社の収益が増えたときに初めて喜べるのではないでしょうか?私は精神病者に限らず就労のハードルを上げているもののひとつに、仕事へ対する憧れがあると思います。私は思うのですが、例えば、庭の草むしりに誰が憧れるでしょうか?でも、「健常者」の仕事として草むしりはあります。私も肥料の袋詰めの仕事を辞めて植木屋の手伝いをしたことがありますが、まさに草むしりが仕事だったことが多かったです。一日一万円で庭の草むしりです。地味な仕事でも達成感はあります。達成感は自信につながります。それと統合失調症を患っている人には朝が弱いという人が多いと思います。それを障害特性と言って就労ができないと考えるのは甘えだと思います。もちろん、その人の症状によって、早起きのできない時期はあるかもしれません。しかし、働く決意をしたならば、きちんと早起きをしなければなりません。いや、早起きが苦手な人はなにも精神病者に限ったことではないでしょう。私も、現在は介護の仕事をしているのですが、毎朝、どれだけ「もう仕事は辞めよう。このまま眠っていよう」と思うことか。それでも気合で起きて仕事へ出ます。そうやって、仕事を続けることで自信を得るのです。
それと仕事をすることの良い点として、人間関係ができるということがあります。これは職場によっては悪い人間関係になる可能性もあります。質(たち)の悪い人間がいる職場に入って社会とはそういうものかと思ってはいけません。そういう職場はすぐに辞めるべきだと思います。私も入社一日で辞めた職場があります。一日目の指導に着いた先輩が会社への不満ばかりを言い、いかに仕事をサボるかをとうとうと述べ、その日、実質働いたのは三時間程度だったため、私はその日の終業時に社長に会い、辞意を告げました。
それは私の中学時代に得た教訓からそうしました。私は中学で野球部に入りました。その先輩たちはだらしなく、いわゆる不良ばかりだったのです。野球に夢を持っていた私はこんな野球部に入りたくない、と思いました。しかし、他に選択肢がなく、そのだらしない野球部に入部してしまいました。たぶん、そこでの経験が厭世観を私に与え、病気の原因になったと思います。あんな野球部はすぐに辞めるべきだったと思います。
私は現在、介護の仕事をしています。福祉の世界は人間がいいと思ったからです。それでもいくつかの施設に面接に行き、「この雰囲気で働きたくないな」と思う職場はありました。現在勤めている職場は本当に恵まれていると思います。
介護職に就いた理由のひとつに、就職率が高いというのがあります。先に述べた草むしりのように、仕事自体のハードルも低いと思いました。地味な仕事です。年寄りのオムツ交換などをする汚い仕事です。私は思うのですが、みんなが嫌がる仕事は精神病者にとってねらい目だと思います。現在の職場で採用されたのは、障害者の合同面接会で面接を受けたのがきっかけです。障害者枠で採用されました。パートです。特別養護老人ホームですが夜勤はお断りしています。現場の職員にはたぶん私の病気のことは知られていません。事務員など上の立場の人は知っています。しかし、八年も夜勤をせずにパートでいることに同僚は違和感を持って、もしかしたらそれとなく知られているかもしれません。しかし、表面上は「健常者」として接してくれます。最高の心のリハビリの環境です。
最後にこの稿の表題を「心のリハビリワークを考えるための”準備”」としたのは、将来「心のリハビリを考える会」を開いたときの議題に「心のリハビリワーク」を上げたいと思うからです。私はどんな仕事が心のリハビリに適しているか、自分の経験の中でしか知りません。「考える会」を開くことで、より具体的にリハビリワークについて議論したいと思います。そこでもしかしたら、「障害者は働けない」という意見も出るかもしれません。しかし、どんな意見が出てもそれが答えではありません。答えはないと思います。だから、私は考え続けることができると信じています。