スマホは本当に便利なのか?
私は静岡県に住んでいるが、先日、台風による災害が県内にあったことを数日後に知った。私は当日、スマホが鳴り、隣の市の地区に避難指示が出ていることを知っていた。しかし、私は普段通り過ごしていた。翌日、ユニクロに靴下を買いに行こうと思って車で出かけると、普段渋滞など起こらない道で渋滞が起きていたのを不思議に思っていた。その翌日、職場で「大橋さんの住んでいるところは無事でした?」などと訊かれ、静岡県で水害があったことを知った。私はテレビや新聞をあまり見ないので情報を知るのが遅かった。
なぜ私がテレビや新聞を見ないかというと、世界観の画一化を怖れているからだ。例えば、ウクライナにロシアが侵攻したときに、ニュースではロシアが一方的に悪いというニュアンスで報道した。(私はロシアの指導者が悪いと思っている)。そして、日本がロシアや中国などに侵攻されたらどうなるか、という不安が日本に起こった。しかし、私はこの不安をメディアが助長しているように思える。たしかに、日本が攻撃されたらどうなるか、という国民の心配はある。しかし、国民はロシアや中国と仲良くしたいと思う気持ちもある。しかし、報道番組などで、「現実問題」として、ロシアや中国が攻めてきたら、というふうに論じる風潮がある。だから、憲法改正で自衛隊を合法化しなければならないという意見が強くなりそうだ。これは例えば、クラスに不良がいる中学生男子が、不良に襲われたときのためにポケットに常にナイフを忍ばせることに似ていると思う。彼がナイフを忍ばせていることを不良が知れば、怖くなり自分もナイフを忍ばせるかもしれない。これが軍拡競争の本質だ。私は日本に外国が攻めてきたらどうなるか、という不安は持っているが、それを「現実問題」というふうにひとつの視点に集約したくない。それは以前からあった問題で、今になって急に前面に押し出す理由はない。ただ不安を煽るだけだ。私がここで言いたいのは、国防の問題ではなくて、テレビなどのメディアが社会の風潮を作るという点だ。
私は小説家を目指していて、オリジナリティのある世界観を構築したいと思っている。だから、あまりテレビは見ない。そんな私も先日少しバラエティを見た。街頭でアンケートを取った結果、「田中」というと誰を真っ先に思い出すか、というので田中という有名人が順位づけられていた。私はたぶん一位は田中角栄だろうと思っていた。ところが一位はお笑い芸人のアンガールズ田中だった。これを見て無批判な人は「へえ~、今、田中と言うとアンガールズ田中なのか」と思ってしまうかもしれない。テレビの中を世間だと思ってしまう人は、例えば、どんな音楽が流行っているかをテレビで知り、テレビで流れている曲を価値の高い曲、流れていない曲を価値の低い曲と思ってしまうかもしれない。「時代を彩る名曲たち」などと題して、昔の流行歌を流す番組があったりするが、本当にそれらの曲は時代を彩っていたのだろうか?時代とはなんなのか?私はビートルズが好きで、父がその世代の人だったので「ビートルズはどんだけ流行っていたか?」と訊くと、父は「ビートルズは一部の人だけが騒いでいただけで、当時はタイガースのほうが流行っていた」と言う。私はビートルズというと、音楽シーンに革命を起こした偉大なバンドというイメージがあったので、父の言う「一部の人が騒いでいただけ」という見方は逆に新鮮だった。現在、私は四十三歳であるが、今のジャニーズの曲を一曲も知らない。昔はスマップの有名な曲はほとんど知っていたが、現在のジャニーズの曲は一曲も知らない。それは私が年老いたのではなく、私は先に述べたように自分の個性を磨くために流行に背を向けたからだ。しかし、音楽は好きで、現在でもビートルズ、あいみょん、バーンアウトシンドロームズ、久石譲、などを聴いている。今、流行っているミュージシャンでは、あいみょん、米津玄師、ヨアソビ、バックナンバー、など聴いていたが、現在進行形としてはあいみょんが残っている。バーンアウトシンドロームズはあまりメジャーじゃないと思うが、その世界観が私の趣味に合致していて好きなバンドだ。久石譲は宮崎駿のアニメの音楽をやっていて、私は宮崎駿が好きなので、その音楽を聴くのも好きだ。昔、宮崎駿は「流行に背を向けろ」と言っていた。私が高校生の頃だ。宮崎駿みたいになりたかった私は、流行に背を向けようとした。しかし、十代の私には流行という波は極めて高く襲い掛かってくるものだった。スマップやモーニング娘などが私の身近にある音楽だった。
あの頃、90年代の終わり、携帯電話が普及し始めた。いや、流行し始めた。そうだ、若い私にとって、ケイタイは流行だった。持っている者は時代の先端を行っているように思えた。ケイタイはもともとなかったものだから、別になくても困らなかった。あの頃はインターネットも普及し始めた頃で、縁のなかった私にはそれらのどこが便利なのかわからなかった。パソコンなどごく一部のオタクのやるものだと思っていた。ホームページ、クリック、アカウント、ログイン、ダウンロード、インストール、わけのわからない言葉の波が襲い掛かって来た。流行に乗り遅れてはいけないと思う者はケイタイを持ち、パソコンは高いので、大学のパソコンルームに籠った。私はそういう人間を見苦しく思った。
しかし、ITの波は確実に社会へ浸透していった。私も母にケイタイを持たされてしまった。そして、私もついにパソコンを買おうと思った。当時、マンガ家を目指していた私は、マンガも必ずコンピューターが必須の時代が来る、そう思い、iMacを買った。当時、iMacは一番のおしゃれなパソコンで、最先端の物だった。しかし、私はコンピューターがわからずiMacはただの置物と化した。iMacは大学を出てもゲームなどでしばらく使っていたが、親が他社のパソコンを買ったため私もそちらを使うようになった。私は小説を書き始めるようになり、マイクロソフトのワードが極めて便利だと知った。そのため、ネットには繋げないで、ワードだけを使うために安いノートパソコンを買った。私にとってワードは小説を書くうえでなくてはならない物となった。それは生きて行くためになくてはならない物を意味した。のちにインターネットにも繋げ、もう生活の必需品となってしまった。
そんな私がスマートフォンを持つようになったのは、職場の女の子に「メールアドレス教えて」と言ったら、「あ、私、ラインしかやらないので」とやんわりと断られたことがきっかけだ。今後は人間関係を作るうえでもスマホは必要なのだ。しかし、私たち人間は本当にスマホを必要としていたのだろうか?江戸時代の人は「スマホがなくて不便だ」などと思っただろうか?私自身子供の頃はケイタイがなくてもまったく困らなかった。困るのはみんなが持っているのに自分だけ持っていない場合だ。
私はスマホがなくても困らなかった。スマホが普及した当時、持っている人は便利だ、便利だと言っていたが、持っていない私から見ると何が便利なのかさっぱりわからなかった。電車の中でみんなスマホを見ていて、それは単に社会現象に過ぎないと思った。つまり流行だ。スマホがなくても不便だと私は思わなかった。しかし、持ってしまうと持たない生活には戻れない。私は思った。便利とは作り出されるものだと。これからもより便利な物が作り出されて行くのだろう。しかし、それらは私たちが待ち望んでいる便利さではない。このままの生活でいいと思っても、次から次へと新しい「便利」が私たちに襲い掛かってくるだろう。それは、年寄りにとっては余計な便利さだろう。現代のIT社会を生きる若者も、自分が年を取ったとき、「新しく生み出される便利さ」は年寄りにとって、その存在自体が不便なものになると肝に銘じておくべきだろう。