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【即興短編小説】罪と罰(寛の告白)

日本が戦後復興した昭和の話である。

ひろしは北海道の高校を卒業すると実家を飛び出して、東京に出た。父親は弁護士で、寛を法学部以外の学部に入れることを認めなかったため、文学部に行きたかった寛は家を出てひとり上京したのだ。

なんの当てもなかった、住む家さえなかった寛を拾ってくれたのは、印刷工場の社長で、猪飼いかいさんという人だった。禿げた人で、寛は内心、「イカさんと呼ばれているけどタコだよな」などと思っていたが、そんな失礼な思いよりも、感謝の念のほうが百万倍も強くあった。寛は印刷工場の二階に住むことになった。そして、工場で働き、いつか大学の文学部へ行き小説家になることを夢見ていた。

ところで、寛が住み込んだ二階からは中庭を見下ろすことができて、その中庭を挟んで反対側には団子屋があった。団子屋の裏庭と、印刷工場の裏庭がどちらのものともわからずに繋がっていて、社長などは、空いた時間などによく団子屋に世間話をしに行った。

寛は、その団子屋に梅子うめこさんという二十歳くらいの娘がいることを知った。彼女の部屋はちょうどその中庭の寛の部屋の対面にあった。寛は毎朝、彼女がカーテンを開けるのを見るだけでドキドキした。それ以上にドキドキしたのは、梅子さんが洗濯をした自分の下着を窓の外へ干していたことだ。寛は彼女の秘密を見ているようで、何か自分の中に罪があるような気がした。

寛は三年経っても彼女とほとんど話をすることはなかった。しかし、向かいの部屋にいる梅子を見ていると、思いは募っていった。ほんの中庭を通れば行けるところにいるのである。

寛は梅子さんとお付き合いできたらどんなにいいだろうと思っていた。

彼女と付き合うにはただ見ているだけという現状を変えなければならなかった。

寛はある日曜日、決意した。

「告白しよう」

寛は中庭を歩いて団子屋の建物のほうに向かった。団子屋の裏口のちょうど上に、梅子さんの部屋がある。寛は緊張して上を見上げた。すると、干していた梅子さんのパンツがヒラヒラと寛の上に落ちてきた。寛がよける間もなくその白い布製品は彼の顔の上に乗った。

「う」

寛はそのパンツを右手でつまみ上げた。

 それはまさしく梅子さんのパンツだった。

不意に寛の中によこしまな心が生まれた。

「これをどうしろというのだ?神様はなぜ僕の顔の上にこのパンツを落としたのだ?」

そう思っていたとき、工場のほうから、イカ社長が呼びかけてきた。

「おーい、寛君、たまには一緒に寿司でもどうだい?」

寛は慌ててパンツをズボンのポケットに入れた。

「寿司ですか?」

「ああ、もちろん僕の奢りだよ。君はよくがんばってくれているからね」

「あ、ありがとうございます」

寛はポケットの中のパンツを握りしめる手が汗でじっとりと濡れるのを感じていた。

 そのまま寛はイカ社長に連れられてふたりで駅前の寿司屋に行った。

 ふたりでカウンターに並んで座り、イカ社長は笑顔で言う。

「さあ、好きなものを注文していいぞ」

寛はポケットの中のパンツが気になって仕方なかったが、イカ社長の禿げた頭を見て、

「じゃあ、タコを」

と注文した。

イカ社長はイカと赤身を注文して瓶ビールも注文した。

 寛はイカ社長の酌を受けた。

「ありがとうございます。しかし、なんで今日は僕に寿司を?」

「いや、君は優秀な人材だ。我が社にとって無くてはならない存在だ。若いのに工場の中軸を担っている。なあ、君は大学に行きたいとのことだが、それはどのくらい本気なんだね?」

「はい、僕は小説家になりたいんです。だから、文学部に入って文学を学びたいんです」

「文学ならば、なにも大学に行く必要もないんじゃないかな?大学を出ていなくても一流の作家というのはいるだろう?」

「いえ、でも、僕は・・・」

「なあ、考えてもみなさい。今、君は、給料をもらっている。住み込みだから、下宿代もただみたいに安い。君が大学に行くのならば、あの部屋から出て行ってもらわねばならないんだよ」

「え?」

寛はイカ社長の顔を見た。

 寛が思ったのは、梅子のことだった。

「それは困る。あの部屋を出たら、梅子さんに会えなくなる」

イカ社長はそんな寛の内面を読み取ることができず話す。

「な?独りで暮らすというのは大変におカネがかかるんだ。君は大学に行かず、我が社で働いていき、そして、好きな小説を書くのがいいと思うんだが、どうだろう?」

「は、はあ・・・」

寿司を食べながら、イカ社長は寛が今後も長く自分の工場で働くことがいかにいいかを熱心に説いた。寛はただ、ポケットのパンツばかりが気になっていた。

 宿舎に帰ると、中庭の向こうの団子屋で大きな声が聞こえた。

「梅子、あんちゃんが、犯人を見つけてぶっ飛ばしてやる」

そう言っていたのは、梅子の兄、ねこ次郎じろうだった。

 梅子は言う。

「お兄ちゃん、乱暴なことはやめて。私は犯人が逮捕されればそれでいいの」

騒ぎを聞きつけた、イカ社長や寛たち工場の人間は中庭からその様子を覗いた。

 寛は話題が梅子のパンツがなくなったことだと知り、まだポケットの中にあるパンツを意識した。

「ここは正直にパンツを返したほうがいい。たまたま僕の上に落ちてきたんだから僕に罪はない。しかし、なぜ、この時間までパンツを返さなかったのか、そこを訊かれたらどうする?梅子さんには間違いなく嫌われるだろう。しかし、このまま、自分の罪を闇に葬ってもいいのだろうか。今後、僕は何食わぬ顔をして、梅子さんの前に出られるだろうか?よし、ここは素直に謝ろう」

寛はイカ社長たちを押しのけ、団子屋の中に入った。

「梅子さん」

「寛さん」

梅子は涙ぐみながら寛を見た。完全に寛を信じている目だった。

 すると、梅子の兄、猫次郎が寛を見て言った。

「おい、おまえだろう?梅子のパンツを盗んだ変態は?」

そう言われると寛は告白すれば自分が変態扱いされることを悟り口から出任せを言った。

「僕がそんなことをするわけがないじゃありませんか。梅子さん、僕も犯人捜しを協力するよ」

「寛さん」

「僕が必ず、その卑劣漢を見つけてやるよ」

すると猫次郎が言った。

「でもおかしいな。梅子の下着は中庭に干してあったはずだ。この中庭に入れるのは、団子屋の人間か、工場の人間しかいない。おい、タコ社長、犯人はおまえだろう?」

「何言ってんだよ、猫さん、俺がそんなことをするわけがないじゃないか?」

「じゃあ、やってないっていう証拠でもあるのかよ?」

寛は猫次郎を宥めた。

「お兄さん、やめてください。人を疑うのはよくありませんよ」

「あ、さては、おまえだな?やい、寛、おまえ、梅子のパンツを持っているだろう?このスケベが!」

梅子は猫次郎と寛の間に割って入って言った。

「やめて、お兄ちゃん。寛さんはそんな人じゃない」

「なんで、わかるんだよ?」

猫次郎は梅子の顔を覗き込んだ。そして、気づいた。

「まさか!おい、梅子、まさか、この男に惚れてるなんて言うんじゃないだろうな?」

梅子の顔が固まった。

「お、図星だろう?」

梅子は下を向いた。

 今度は寛が言った。

「お兄さん、妹とはいえ、女性にそんなデリカシーのないことを言うのはやめてください」

「でりかしー?なんだよ、でりかしーって?人が真面目な話をしているときに英語なんか使うんじゃないよ」

寛は梅子の肩を抱いていた。

「もう、こうなったら言います。僕は梅子さんを愛しています」

梅子はハッと寛の顔を見た。

 猫次郎も寛の顔を見た。

「なに?もう一度言ってみろ」

寛は猫次郎の顔を真っ直ぐ見て、言った。

「僕は梅子さんを愛しています。お兄さん、梅子さんと結婚させてください」

猫次郎は寛の顔を見て言った。

「なにぃ~?おまえ、よくもこんなときにそんなことが言えるな?梅子が下着を盗まれて落ち込んでいるときに、おまえは結婚させてくれ?冗談じゃない!だいたい、おまえは梅子の気持ちを聞いたのか?え?梅子、おまえはどうなんだ?こいつと結婚するのか?」

梅子はキッと兄の顔を見上げて、それから寛の顔を見て、また、もう一度猫次郎の顔を見て言った。

「私は寛さんと結婚します」

梅子は寛の顔を見た。

「梅子さん」

「寛さん」

ふたりは抱き合った。

 工場の人間たちはイカ社長が手を叩き始めたので続けて手を叩いて、口々に叫んだ。

「おめでとう」

「寛君、おめでとう」

「寛、うらやましいぞ」

猫次郎は天井を見上げて黙り込んだ。そして言った。

「じゃあ、式を挙げなきゃな。寛、おまえは北海道の出だったな。家出してきたとか。両親を東京に呼べるのか」

「親父は・・・僕は大学を出ていません。親父は大学を出ていないような僕の結婚を許すでしょうか?」

「そんなこと俺に訊かれても知らねーよ。なんとか説得して呼ぶんだな。来ないなら来ないでもいいだろう。今時、結婚はお互いが良ければそれでいいんだ」

寛は猫次郎に頭を下げた。

「ありがとうございます」

周りの人々にも頭を下げた。

「みなさん、ありがとう」

寛はそのとき、ポケットのパンツを思い出した。

「これ、どうしよう・・・」

 

 式は寛の両親も出席し、滞りなく終わった。

 新婚旅行は熱海だった。

 寛は梅子と初めての旅行を楽しんだが、頭の隅にはあのパンツのことが常にあった。

 あのパンツは、ゴミ箱に捨てるわけにも行かず、近所のドブ川にひとりで出かけて、こっそりと流れに投げ込んだ。こうして証拠は隠滅したのだが、ただ、寛の中に罪の意識だけが残った。

 子供が生まれても、彼はあの秘密を妻に打ち明けることができずにいた。もし、打ち明けたら、梅子は離婚すると言うかもしれない。

 結局、寛は死ぬまであのパンツの罪を隠して生きた。あの罪の意識はどんなに幸せな時でも、常に寛の頭の隅に不要になったツバメの巣のように、こびりついていた。

 世界中でただ独り寛だけが知っている真実だった。告白すればすべてが壊れてしまう、そんな恐怖を抱えながら、寛は一見幸せそうな人生をハラハラしながら生きた。

 

 

 以上、これは私、寛(仮名)の実際に抱き続けてきた罪の告白である。

                                    (了)

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