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京都大原からの土産

昨日、京都大原に行ってきた。
で、土産の話だが、私は登山に行くとき、土産を買うことはあまりない。登山は観光ではないからだというのが理由だ。
例えば、槍ヶ岳に登って、降りてきた上高地でクッキーを買って土産とするのは、なんか違うと思う。上高地は目的地ではなく槍ヶ岳山頂が目的地だからだ。もし、土産にするなら高山植物を押し花にして持って帰るか、石を拾って持ち帰るかそのほうが登山の土産らしいが、高山植物を採取することも石を持ち帰ることもできないのが山のルールだ。
一番いい土産は写真だろう。
私は介護施設で働いているが、夏に登ったジャンダルムという岩山の写真をプリントアウトし、ひとりのおばあさんにあげたら大変歓ばれた。しかし、職員みんなに写真を手渡すのも歓ばれるとは限らない。だいたい、そのおばあさんにあげた写真は写真屋でプリントアウトしたのだが、普通の大きさで百円かかった。プリントアウトはかなり高くつく。だから私は一枚しかプレゼントできなかった。介護施設にはたくさんの利用者がいるが、全員に渡すなどとても無理だ。大きな写真をプリントアウトして壁に貼ろうかとも考えたが大きな写真のプリントアウトは、それだけでかなり高い。壁に貼ったところで剥がれ落ちる可能性もあるし、額に入れることも考えられるが額は高い。私の給料から施設に寄付するのは、そこで労働してカネを貰っている身からしてあまり気持ちが乗らない。ボランティアではないからだ。
今回は職員に土産を買おうと思った。
帰りの京都駅で物色したが、女性用と男性用とふたつの休憩室のある私の職場では、土産を買うならばふたつ買わねばならないので、安いクッキーの箱をふたつ手に取ったが、なんとなく、京都程度で土産とは大袈裟で、安いのを買うのはカッコよくないし、などと思い、その箱は棚に戻した。
以前、ギリシャに旅行したときは職場への土産も奮発した。ギリシャひとり旅は私にとって挑戦であり、土産を買おうとするのも自然な気持ちだった。
義理で土産を買うというのはあまりいい文化ではない。
職場ではよく土産を買ってきてくれる職員もいるがそうでない職員もいる。そうでない職員にならうのも良くないが、あまりよく買ってくる職員の真似も私にはできない。私の住んでいるのは静岡県で、京都まで二時間で行ける。二時間で行ける場所から土産という気持ちには私はなれなかった。
今回は、寂光院から出た場所で売られていた柴漬けを自宅用に買った。それは自然な流れだった。店の人が味見を勧めてくれて、美味かったし、もともと柴漬けは買いたいと思っていたから買った。
それ以外の土産で何かいい物はないかと少しだけ店を見たが、特にこれといった物はなかった。
帰りの駅で、自宅用に生八つ橋を一箱買った。帰ったら土産話をしながら両親と食べようと思ったからだ。

土産は心がこもっているかが大事で、義理を思って買わなければと思うのは間違いだと思う。二十五年前、二十歳の時に私はおばあちゃんとパリに旅行に行ったが、そのとき新婚旅行だという人の良さそうな夫婦がいたが、妻のほうが「職場にお土産を買わないのは怖い」などと言って本当に怖がっているようであったから、土産ってそういうものかな?と思った。
買って帰らないのは申し訳ないから買う、という動機で買おうとしていたら、それはやめるべきだと思う。
ただ、もらって歓ぶ人の顔を思い浮かべて土産を選ぶのが本当の旅行の楽しみのひとつだと思う。
私は小学校の修学旅行、五千円のお小遣いで、家族ひとりひとりにお土産を選ぶに当たり金額を計算するのに大変な頭を使ったが、そのとき選ぶ基準はどれが、誰に歓ばれるかだった。
だから、今回、職場に土産をと思ったのは義理であったし、安いクッキーを買ったところで義理だと思われるし、それを手渡すのも億劫なので買わなかったのが良かったと思う。
義理で土産を買うというのは日本の文化として悪い文化だと思う。
私はここまで家族と職場についてしか述べてこなかったが、ご近所に土産を買ったことは一度もない。私自身はご近所さんとは挨拶する程度でつきあいがないからだ。私が子供の頃、家族で旅行に行くと、親たちはご近所に土産を買って、帰ると配って回っていた。今はもうそういう時代ではないと思う。
ただ、お土産というものは非常に大事な物であって、誰かが歓ぶ顔を見たいがために買おうと思うならば、絶対に買うべきである。そうなると好きな人だけに買うことになると思うが、好きでもない人に義理立てする必要もないと思う。

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