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『ジャンダルム』(10)ロバの耳【ノンフィクション小説】

馬の背を越えると、ガレ場を下る場所に出る。
そこは浮き石だらけで落石に細心の注意を払っていかねばならない。
石を落とすのは、他の人の危険であり、上から石を落とされるのは、自分の危険である。
私の前には先行者がいて、ちょうどそのガレ場を降りきったところだった。だからといって私が石を落としていいわけではない。
私はゆっくりとガレ場を下り始めた。
すると落石してしまった。そういうとき大きな声で「ラーック!」と言わねばならない。私は生まれて初めて「ラーック!」と言おうとしたが自信のない蚊の鳴くような声だった。と言うのも下には人がいなく、落とした石も小石で、すぐ下で止まったからだ。しかし、ここは恐ろしかった。人に迷惑をかけるとかかけられるとか、そういった社会関係があった。自分が滑落する危険というのではなかった。
しかし、ここはまだロバの耳ではない。
私は次の岩登りを始めた。

先行者がふたりいる

私はロバの耳がどこだかわからなかった。しかし、いままで経験したことのない岩場の連続だった。登山道はペンキで○印や×印があって正しい道を示してくれるようになっている。このジャンダルムへの道では、とんでもないところに○印があって、え、ここ登るの?というような垂直な岩が進路だったりする。それでもそこを越えなければジャンダルムには行けない。

左の方に○印が見える。ここを登る

私は三点支持を常に意識しながら、○印に従って岩の凹みに足を入れ出っ張りを手で掴み、攀じ登っていった。時には○印の方では行けなく、少し戻ったところの岩の割れ目の方が登れそうだったりして、その時は自己判断でそちらを登った。自分の命は自分の物だ。そのような登攀を続けているときはジャンダルムは見えていない。とにかく正規ルートを行けばジャンダルムに行ける、そう信じて行くしかない。霧も思った以上に深くなっていた。私は恐らくジャンダルム手前の最後のピークまで登った。しかし、そこから上には登れそうもなかった。私は不安になった。もっと先に行くべきか、引き返すべきか・・・。そのとき、引き返した地点の岩を西側に越えていった方向からリーンリーンと先行者のクマ鈴の音が聞こえてきた。私はその地点まで戻った。すると、足下の石に×印がついていて、私が間違えて登りすぎていたことがわかった。そして、岩の西側を覗き込むとYouTubeで見た鎖場があった。私はこちらが正規ルートだと確信して、鎖を持って降りていった。前にはクマ鈴の先行者の背中が見えた。そして、ジャンダルム直下まで来た。

ここは西側に巻いて、傾斜の緩い方を登ることはYouTubeで知っていた。切り立った崖の足場を確認しながら、岩を巻いていった。すると、クマ鈴の先行者に追いついた。この人は小屋で一緒だった手ぬぐいの男で赤い服を着ていた。私は「あなたがクマ鈴を着けていてくれたおかげで遭難しなくて済みました」とお礼を言った。彼は「いや、私は落石が怖いから自分の存在を知らせるために着けているだけだよ」と言ったが、やはり私が道を間違えていたのを悟らせてくれたのはこの鈴に違いなかった。ふたりはジャンダルムへのルートを探った。私は岩場を先に進んで行った。すると行けそうだった。しかし、手ぬぐいの男は、「こっちに鎖があるから、一度こちらに降りてからじゃないのかな?」と言っていたが、私は戻るのは面倒だし、動画でもここを行けば登れることは見ていたので、そのまま進んだ。そして、岩場を登りきると、そこはジャンダルム山頂だった。

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