長編小説創作日記。クライマックスを削除した
今、私は長編小説を書いているのだが、さっき、終局のクライマックスを削除し、書き直すことにした。
冒険ファンタジーなのだが、ほぼ、マンガみたいな内容で、少年の勇者が悪の王を倒しに行く話だが、そのラスボスとの戦いのシーンからあとを削除したのである。戦いが終わりさらにあとに本当の結末を書こうと思っていたのであるが、最初から設定してあったラスボスとの戦いがあっさりと終わってしまっていて、面白くないと思ったから削除した。
こういうふうに書くと、ラスボスとかいかに私がゲーム脳で書いているかがわかると思う。しかし、ドラクエの世代である私は、勇者が魔王を倒しに行くような話がメッチャ好きなのである。もちろん二次創作ではない。
私はこういうファンタジーを書くときが一番真剣に小説に向き合っているときのような気がする。純文学など書くときは、なんだか文壇に阿っているようで、自分の書きたいことを正面から書いているような気がしないのである。
私がこの世で一番好きな芸術作品は、宮﨑駿監督の『天空の城ラピュタ』である。あれを超えなければならないと思っている。少なくともあれよりも面白いと自信を持って言える作品を書きたい。もちろんアニメと小説は違うから、物語は自然と性質を異にすると思うが、アニメで一番面白いのは宮﨑駿の『天空の城ラピュタ』、小説で一番面白いのは大橋勇の『○○○』というふうに自分で言える作品を書きたい。現在、五百円でnoteに公開している『空中都市アルカディア』は自信があるが、『天空の城ラピュタ』と比べてどうかというと、まだ弱い気がする。しかし、冒険ファンタジーは現在『空中都市アルカディア』から数えて六作目を書いている。さらに一年四ヶ月間に渡って「小説家になろう」に連載した大長編『最低な三人の異世界転生ドラゴ二ア冒険記』も傑作とは言えないが、創作上で学ぶことが多くあった。過去五作を振り返っても、色々思う所はある。いつか創作上の師、宮﨑駿を超えてみせようと思う。いや、冒険小説としてであって、『となりのトトロ』とか『魔女の宅急便』は素晴らしい作品だが、私が書きたいジャンルではない。また、小説の最大のライバルは『ハリーポッター』のJKローリングかもしれない。あんなに世界的に売れた小説を私は知らない。いや、小説というか物語と言ったほうがいい。同じ冒険ファンタジーで『ロードオブザリング』があるが、あれは通読したが『ハリーポッター』ほどではなかった。そうは言っても、『ハリーポッター』と私の『空中都市アルカディア』を比べた場合、方向性が違うので、その価値を比べられないのである。つまり私は『空中都市アルカディア』に世界で売れるくらいの自信を持っている。しかし、似た方向性の『天空の城ラピュタ』と比べてしまうと、私自身が『ラピュタ』の影響をもろに受けているため客観的に比較できないのである。しかし、こうやって芸術作品を比較し、どれが上でどれが下というのも不毛なことかもしれない。そういう意味でも私の『空中都市アルカディア』は独自の価値を持っており一読する価値はあると思うので、ぜひ読んで欲しい。
現在書いている長編小説は、大長編『最低な三人の異世界転生ドラゴニア冒険記』から学んだことを生かしていて、過去五作とは少し違うテイストで書かれている。私はゲームみたいな物語は好きではなかったが、最近はゲームの世界、特に冒険ファンタジーの世界には共通のイメージがあって、やはり悪と戦う物が多い気がしそれらの人気は絶大であると思うようになった。『天空の城ラピュタ』だって主人公が武器で戦うシーンこそないが、悪との戦いである。同じ宮﨑駿監督の『もののけ姫』は悪との戦いではないが、活劇物である。宮﨑駿監督は「悪との戦い」を嫌っていたような節があるが、私もそういうものは避けてきた。勧善懲悪は書いていてつまらないのである。今書いている物も、ラスボスが出てくるが、「生きている価値のない悪人」みたいな書き方はしていない。私にはそうしたヒューマニズムがある。ラスボスを憎み倒してスッキリするという心情が、解せない。だから、私はゲームをしない。戦いはストレスになる。しかし、ストレスを求めるのも人間である。だから、私は今回書いている長編小説のラスボスとの戦いをもう少し、主人公たちが苦しむよう変えるために削除した。苦しみからの開放感が、読後の余韻になると思う。その開放感には悲しみなど付加すると尚良いと思うので、色々工夫してみようと思う。