『空中都市アルカディア』17
第二部 アルカディア
第一章 再会
一、空中都市到着
黒髪で黒い瞳の若者シロンは空中列車の窓から顔を出した。前方上空にアルカディアが浮いている。その大地はパンケーキのように平べったい物で楕円形に近い形をしている。南北五キロメートル、東西三キロメートルの、南北に長いアルカディアは言わば横向きに東に向かって浮遊している。列車は蛇行してアルカディアへ南側から近づいて行く。逆さまになった黒い高層ビル群が列車を迎え入れようとしているかのように迫ってくる。アルカディアの下部は上に地面の天井があるため昼間でも暗い。高層ビルの下の方には陽の当たる部分もあるが中央へ行くほど暗くなる。万年曇り空の天気と言ったらいいだろうか。朝と夕方しか光が差さないようだ。天井の地面から垂れる高層ビルを繋ぐ道がいくつもあり、その上を自動車や列車、ホバーバイク、ホバーボード、あるいは徒歩の人たちが行き交っている。薄桃色の道はホバーボードとホバーバイク用の道。薄紫色の道は自動車の道。薄黄色の道は歩行者の道。それから何本か線路がある。道の素材は石やコンクリートではない。半透明のガラスのようにも見える。もちろんガラスのような割れる物のはずはない。そこがアルカディアの科学力だ。また、道は下向きのビル群と繋がっていて、それぞれのビルの入り口から伸びた小道と結びついている。必ずしも一番上の階に入り口があるのではない。二階(地下二階と言うべきか?)にあったり、三階にあったりする。あまり下のほうにはない。ビルの高さ(低さ?)がそれぞれ違うからだ。すべての道はビル群に固定されてあり、それを支えに浮いている。道の両側は転落防止用の透明な壁がある。歩行者用以外の道は一方通行のようだ。シロンの乗っている空中列車はそれらの道を縫うように避けながら上にある地面に向かって行く。どうやら空中列車の駅は空中都市の下側にあるらしい。上側はアルカディア自由市民が住む場所でそれ以外の者は下側の高層ビル群に住むのだ。空中列車はその黒い高層ビル群の中に入って行く。そして、高層ビル群の中央にある駅に停まった。プラットフォーム、駅舎は上にある地面からぶら下がっている。
シロンはプラットフォームに足を下ろした。この地面が空中に浮いていると思うと平衡感覚が狂うような錯覚に襲われた。しかし、プラットフォームは揺れることなどなく、地上の地面と同じように安定している。
シロンはプラットフォームの隅に行き、そこにある柵から下を覗いて見た。御影石のような黒い石でできた高層ビルが下に向かって伸びていて、そのはるか下にエーゲ海のコバルトブルーが光っていた。
シロンは上を見た。列車の屋根より高い所にアルカディアの地面の下側が天井となっていた。苔むした岩が圧迫するようにほとんど凹凸がなく四方に広がっていた。
列車から降りた乗客は駅の出口に向かっていた。
出口を出ると灰色の床の広場があり、振り返って駅の出口を見るとギリシャ神殿を思わせる門構えだった。広場は空中都市下部の中心にあり、そこから道路が四方八方に伸びている。歩行者用道路以外は一方通行なので、広場から出る道路に入り口ならば〇、出口ならば✕と表示されている。
ごった返す広場ではアカデメイアの新入生を迎える職員たちが大きな声で呼びかけていた。
「アカデメイアに入学される方はこちらへお進みください」
他にもそれぞれの専門職がそれぞれの分野のメダリスト及び入賞者たちを出迎えていた。
シロンはカルスを探したが見当たらなかった。
シロンたち千人のアカデメイア新入生は職員に案内されてぞろぞろと、広場の中央にある円筒形の建物の中に導かれた。その建物の内部は自動車が何台か横並びで通れるほどの幅のある坂道が螺旋状に上へと上っていた。そこがこのアルカディアの下部と上部を結ぶ連絡路だとわかった。他にも連絡路があるのかこのときのシロンにはわからなかった。
そして螺旋状の坂道を登りきると丸いドームの天井の広い円筒形の建物内に出た。あとでシロンは知ったが、この建物はパンテオンと呼ばれるものだった。それは旧世界のローマにあったものと形が似ていた。
パンテオンから外に出るとそこは旧世界の古代ギリシャ、あるいは古代ローマの都市にタイムスリップしたかのような錯覚に襲われる眩い世界が広がっていた。北を向いているパンテオン出口から北へ向かって真っすぐに伸びた街路樹のある広い道路の向こうに高さ十五メートルほどの凱旋門があり、その向こうに高さ三十メートルはある真っ白なピラミッドがあった。階段状になっているのではなく、滑らかな斜面でできたピラミッドだ。そして、左手、つまりパンテオンの西側にあるのが円形闘技場コロッセオだ。巨大な白い大理石を積み上げた建造物で、たった今築き上げたかのような❘艶やかなテカリがあった。そして、右側、つまりパンテオンの東側に壮麗な野外劇場と野外音楽堂があった。これらもコロッセオのように白い大理石でできていて半円形の壁の向こうには何千人も収容できるような階段状の観客席があることを想像させた。さらにコロッセオの西側には陸上競技場があった。
パンテオンの北側にはオレンジ色の屋根と白い壁の建物が夥しく整然と碁盤の目状にあり、この北側半分にアルカディア自由市民の住む町があり、神殿やピラミッド、アカデメイア、アゴラなど世界の中枢があるようだ。
パンテオンの南側に回り込んでみると、空中都市上部の南半分は庭園となっているらしく、野原と森があった。野原に古代ギリシャ風の遺跡のような崩れた建物が蔓草を纏ったオブジェのように散在している。
シロンは北側の壮麗な大都市を見て、これから学ぶアルカディアの叡智を思うと武者震いがした。一方、南側の庭園を見ると、これこそが昔から憧れて来た理想郷なのではないかという思いが強く胸を打ち、涙さえ滲んできた。
「ここがアルカディア、俺がずっと来たかった天空に浮かぶ都市なんだ」
職員に案内され、シロンたちアカデメイア新入生はアカデメイアの大講堂に集められ、今後のスケジュール、住む部屋、生活の仕方などの説明を受けた。そして、それぞれ、部屋の鍵を渡され解散となった。
アカデメイア学生の寮は野外劇場の北側にあった。劇場から役者の声が聞こえて来そうなくらいの近さだ。寮の建物はオレンジの屋根瓦と白い大理石の壁でできていて、下界からの新入生千人やすでに在学していて卒業できない学生をそれぞれ個室に住まわせるキャパシティを持っていた。高層建築ではないぶん、そこに碁盤の目に区画された学生街というひとつの街を形成していた。商店もレストランもあった。アカデメイア学生はアルカディア世界政府から小遣いが支給される。もちろん、アルカディアに生まれ育った良家の学生には、自由市民の生活費がすべて政府に保証されているため、その中から小遣いが出される。もっとも、多くの自由市民はなんらかの仕事を持っている。仕事をしたほうが自己効用感がある。しかし、その職務はほとんどが公務でその他の仕事は専門職に任せてしまう。そして、アカデメイアで学んだが自由市民になるための試験に三十歳までに合格しなかった者が引き続きアルカディアに住み続けるために世界政府の省庁の役人になる。
シロンは二階建ての寮に入った。シロンのひとり暮らしの部屋は二階だった。シロンは荷物を置くと、まず部屋の窓から外を見た。野外劇場の壁面が見えた。部屋の中にはベッドと机がある。トイレとシャワールームがあり洗面台と鏡がある。洗濯機もついていて、窓の外にあるバルコニーで洗濯物を干せるようになっている。キッチンもあり冷蔵庫もある。食材はアゴラ市場で買うようにシロンは説明を受けていた。アルカディアのアゴラ市場は当然良質な品物が揃っているだろうと想像された。
シロンは真っ白なキングサイズのベッドにダイブした。フカフカで洗い立てのシーツの匂いに包まれてシロンは笑みがこぼれた。
「これが世界の中心、一流の物ばかりが集まるこの都市で俺は生活するんだ」
天井を見た。白い天井には唐草模様のレリーフがある。その模様の流れを目線で追い駆けながら考えた。
「ライオスとアイリスに会わなくちゃ。それからカルス・・・。あいつの姉さん、たしかミレネとか言ったあの人を狂わせた男がこの島のどこかにいる。完全ではない理想郷」
シロンは大講堂で配られた説明書を手に取った。地図がある。島の中心に下部と通じるパンテオンがある。その西側に円形闘技場コロッセオがある。さらにその西側に陸上競技場がある。パンテオンの東側には野外劇場と野外音楽堂がある。その北側に学生街とさらに北にはアカデメイアの学堂がいくつもある。パンテオンから北に向かって、この都市の中央を南北に貫く都大路がある。都大路の東側は今言った学生街であり西側には自由市民の家々がある。都大路の北の行き止まりには東西にまっすぐ延びる高い壁とその中央に高さ十五メートルほどの凱旋門があり、その門をくぐるとアゴラがある。このアゴラは市場ではない。市場のアゴラは凱旋門の南側正面にある。高い壁の向こう側、つまり凱旋門の北側には自由市民と学生その他関係者しか入ることは許されない。下部に住む住民はパンテオンを通って自由に上部へ来られるが、いわゆる聖域と呼ばれる凱旋門内部に入ることは許されていない。聖域にあるアゴラは自由市民たちが議論する広場だ。長い屋根を支える柱廊に囲まれたアゴラには何千人も集まることができ、演説台などがある。政治や哲学などを議論する場所だ。そのアゴラを囲むように東側に行政府の白い建物、西側に立法府と司法府の白い建物がある。さらにその北側に古代ギリシャの神殿がありその神殿の北側、島の最北端には回廊に囲まれた白い大理石のピラミッドがある。聖域の建物は屋根も白い。聖域には植物がない。聖域の外、つまり高い壁の南側にはオレンジ色の瓦で屋根を葺いた白い壁の建物ばかりがあり緑の木々があって楽園の風景を作っている。都大路には世界中の木を並べた並木が両側にある。パンテオンの南側には広大な庭園が広がっている。緑に埋もれた古代神殿などの廃墟があるそこは、まさに理想郷と言えるかもしれない。
アルカディアを上から見れば、南半分が緑の公園で、中央の南北を分ける線上に陸上競技場、コロッセオ、パンテオン、野外劇場、野外音楽堂が並んでいる。北半分のほとんどがオレンジ色の瓦を葺いた建物が並び、北端に壁で遮られた白い聖域がある。
シロンはアイリスとライオスとの連絡手段を持たなかった。シロンがアカデメイアに合格したこともふたりは知らない。シロンもふたりがどこでどんな生活を送っているのかも知らない。シロンはとりあえず、地図を持ってアルカディアを散策することにした。
寮の二階から降りて、街路に出た。南側には野外劇場と野外音楽堂がある。パンテオンのほうに歩いて行くと、そこから都大路がまっすぐ北へ向かい、背後に高さ三十メートルの白亜のピラミッドを擁した凱旋門に突き当たる。シロンはそちらには行かず、パンテオンとコロッセオの間を通り抜け、南側に広がる庭園に向かった。
庭園には森がある。朽ちた大理石の建物がある。そこで休む家族やカップルがいる。下部の住民にも利用が許されているので、憩いの場所となっているようだ。
森の中をシロンは南へ向かって歩いて行く。地図によると島の南端に「エンペドクレスの飛び込み台」というものがあるらしい。それが何なのかを知りたかった。
森を抜けると野原となっていた。南端に人がふたり並んで通るのがやっとというような蔓草の巻きついた小さな凱旋門があった。その向こう側に空中に向かって桟橋のように突き出た部分がある。地図で確認するとそれが「エンペドクレスの飛び込み台」らしい。シロンはその小さな凱旋門をくぐり、緑の草の生えた飛び込み台の先端まで出て下を覗いた。はるか下方に海が見える。
「ちょっと待ったぁ」
とシロンの背後に男性の声がした。振り返って見ると小さな凱旋門の下に中高年の小太りで禿げた男がひとりいた。
「わたしは『ちょっと待ったおじさん』だ。はやまっちゃいかん。生きていれば必ずいいことはある。自ら死ぬなんて、そんなことはしちゃいかん」
シロンは答えた。
「なにを言ってるんですか?ぼくはここがなんなのか見学に来ただけですよ」
ちょっと待ったおじさんは言った。
「見学?それもいかん。ここに来ると飛び込むイメージができて実行に繋がる」
シロンは質問した。
「ここは何なんですか?」
ちょっと待ったおじさんは言った。
「ここはエンペドクレスの飛び込み台。つまり飛び降り自殺をする場所だ」
「え?飛び降り自殺?なんでそんなものが?」
「それはわからん。アルカディアを造った古代人にいまさら質問はできない。だが、古代人はこれが必要と思い造ったようだ。理由はわたしにもわからない」
エンペドクレスは旧世界の古代ギリシャの哲学者で、燃え盛るエトナ山の火口に飛び込んで死んだ男だ。その名が大変動後のこんなところに名前として生きている。
シロンが周りを見渡してみて気づいたのはアルカディアの地面の縁には半透明な柵があることだ。転落防止の柵だろうか。だが、エンペドクレスの飛び込み台には柵がない。そこだけ飛び降り可能な場所となっているようだ。
「自殺者は多いんですか?」
シロンはちょっと待ったおじさんに質問した。
おじさんは答えた。
「多い。とくに下部に住む人間が、人生に失望しここへ来ることが多い。わたしはそういう者には下界へ帰ることを勧めている」
「アルカディアに失望した人々ですか?」
「そうだ。下部の人間はどうあがいても自由市民にはなれない。そのストレスでここへ来るようだ。なにしろ下界でメダリストになったような各界のエリートたちだからな。そのエリートがこんな待遇かと失望するんだ」
「こんな待遇?」
おじさんは言った。
「例えば、陸上のランナーの金メダリストは、陸上だけができると思いアルカディアに来る。だが、実際はそれとは関係のない仕事を下部でさせられるんだ。それで失望する。また、アカデメイアに入った者。自由市民になれればいい。だが、三十歳になるまでになれなかった者は絶望する。自分の人生は何だったのか、と」
シロンはエンペドクレスの飛び込み台をあとにし、下部に行くことにした。パンテオンから螺旋状の坂道を下り、下部へと向かう。途中、自動車とすれ違った。荷台にギリシャ製ワインを積んでいた。アクロポリスのパルテノンから空中列車で運んだ物だ。税である。
シロンは下部に出た。パンテオンの底の出口は、空中列車の駅と対面する形で広場の中央にある。パンテオンと屋根のないギリシャ神殿風の正面のあるこの駅のふたつのみが、この下部において旧世界の古代ギリシャ・ローマ風の建物であり、それ以外は旧世界のニューヨークのような近代都市となっている。駅前の中央広場を中心として道が、氷柱状の黒い御影石でできたような高層ビルを結んでいる。シロンは一番低いところまで伸びている高層ビルの最下階に向かうことにした。道は自動車用とホバーボード、ホバーバイク用、それから歩行用と分かれている。シロンは歩行用の道を歩いて、最下階に展望室のある高層ビルに向かった。
エレベーターで建物の最下階を目指す。他の客は何人もいたが、途中で降りたり途中から乗ったりして忙しく入れ替わった。エレベーターはガラス張りで外の様子がよくわかる。エーゲ海に島々が浮いている。最下階に着くとそこは展望室で、床もガラス張りだ。シロンは何とも言えない浮遊感を味わった。こんな体験は初めてだとシロンは思った。他にいる客は家族連れが多かった。子供たちは生まれたときから空中の生活が当たり前なのだとシロンはぼんやりと思った。