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【即興短編小説】板チョコの罪と罰

 学生のニコハルは暇を持て余していて、文学でも読むかと奮い立ち、ドストエフスキーの『罪と罰』を読んだ。

 ニコハルの本名は原須はらす爾呼にこはるである。

 彼は『罪と罰』の主人公、ラスコーリニコフと自分の名前が似ていたため、自らの名前もニコハルとカタカナで意識するようになった。

 彼には大きな野心がなかった。

 夢というのもなかった。

 ただ、大学生になって暇で暇でしょうがなかった。

 バイトでもしようかと思ったが、仕送りで最低限の生活ならばしていけるので、働くことも億劫になっていた。

 大学生は自由だと言われる。

 だが、二コハルにはカネがなかった。時間だけが膨大にあった。

 大学一年の夏休みの半分は自動車免許の取得に費やされた。

 しかし、それ以外は暇である。

 二コハルはそこで文学でもやってみようかと、『罪と罰』を図書館で借りて読んだのである。

 二コハルは大きなことを成し遂げるためには小さな罪は許される、という考え方に深く頷いた。

「憎まれっ子世に憚るだ。一万円札になった偉人、渋沢栄一は女遊びが酷かったらしい。しかし、近代日本の立役者として、令和になり一万円札の顔になった。彼に玩具にされた女たちはどんな気持ちになるだろう。ああ、俺は女を抱いたことがまだない。だが、彼女がいない。しかし、セックスしても現状で子供ができたら俺は育てることができない。若い俺にとってセックスは罪だ。女を抱くのは罪だ。その性欲の中には悪がある。その悪を実行するのは罪だ。ああ、こんなことに悩んでいる俺は小さな男だ。渋沢栄一のような活躍はできない。女くらい抱けなくては。小さな罪を犯すことを恐れていては大事を為すことはできないだろう」

二コハルはアパートの部屋の畳の上に寝転がっていたが、また、手元にあった『罪と罰』を手に取った。

 そして、立ち上がった。

「よし、俺も小さな罪を犯そう」

二コハルは野球帽を目深に被り、アパートの部屋を出た。

 そして、近所のスーパーマーケットに向かった。

「大事を為すには、まずは小さな罪を犯さねばならない」

スーパーマーケットに入ると九月の残暑を忘れさせる冷房の涼しさが心地よかった。

 二コハルはお菓子のコーナーに行った。

「ポテトチップス・・・俺のポケットには大きすぎる・・・板チョコ・・・」

二コハルは周囲を見た。向こうの棚で老婆が、カップ麺を物色している。反対側を見ると、四十歳くらいの主婦がビスケットを手に取っている。二コハルはこのふたりがいなくなったときが、チャンスだと思った。

 すると、四十歳ほどの主婦はクッキーの箱をカゴに入れ、立ち去った。二コハルは反対側を見た。老婆はまだカップ麺を物色している。

「早く選べよ、ババア」

二コハルは手がぐっしょりと汗ばんでいることに気づいた。老婆は向こうを向いた。チャンスだ。二コハルは素速く板チョコをズボンのポケットに入れた。

 そして、辺りを見た。誰も見ていない。

 すると、カップ麺を物色していた老婆がこちらに向かって歩いて来た。

 二コハルは冷や汗が出た。

「バレたか・・・!」

背中の曲がった老婆は二コハルに質問してきた。

「あの~」

二コハルは平静を装って笑顔を作った。

「な、なんですか?」

「カップラーメンはあるのだけれど、カップうどんはないのかしらね~。ここに置いてないのかしら?」

二コハルは思った。

「このババア、正直に『見た』と言ったらどうだ。俺は今、万引きをしたんだぞ」

「あなた、知りませんかねえ?」

「そこの棚の角にありませんか?」

「え?」

老婆は振り返った。

「ああ、こんなところに」

老婆は再び二コハルを見た。

「どうもありがとうねぇ。お若いのに親切で、ありがとうねぇ」

老婆はぺこりと頭を下げると、カゴに赤いカップを入れて離れて行った。

「バレてない!」

二コハルはホッとした。

「この店には、出入り口にセンサーなどもない。この棚付近にも防犯カメラはない。成功だ。俺の罪はバレていない!」

二コハルは板チョコの入ったポケットに片手を突っ込みながら、悠然と、彼自身としては努めて悠然と、スーパーマーケットの外に歩いて出た。

 スーパーマーケットの前には交番があった。その前には警察官が立っていた。

 二コハルはその前を通り過ぎたとき、警察官にあいさつしなければならないと思った。

「こ、こんにちは」

二コハルはそう言って焦った。

「どもっちまった。何か隠していることがバレるかも知れない」

警察官は笑顔で答えた。

「こんにちは」

二コハルは警察官が疑いの眼で自分を見ている気がした。

「笑顔に騙されないぞ。俺の右手のポケットには犯罪の証拠がある。もしかしたら、こうしている間に、スーパーから店員が『万引きだー』と追ってくるかもしれない」

二コハルは早足で交番の前を通り過ぎ、自宅のアパートに向かった。

 アパートに着いて、ドアの鍵を開けるとき二コハルは周囲を見渡した。

「警察の眼はない」

ドアを開け、部屋に入りドアの鍵を閉めると、二コハルは大きな仕事をやり遂げた気分になった。

「やった。俺は生まれて初めて犯罪をしたぞ。誰にも知られていない犯罪だ。俺だけの秘密の罪だ」

二コハルは靴を脱いで部屋に上がると、キッチンのゴミ箱の前で板チョコの袋を破り、チョコを囓った。初めての罪の味がした。

 彼は板チョコを立ったまま全部食べてしまった。

 

 

その日の夕方。スーパーマーケットの前の交番前にはパトカーが何台か停まっていて、警官も多く出入りしていた。

「で、取られた物は?」

交番の中にある一室で警部が訊いた。

 老人は言った。

「三千万円で買ったダイヤモンドの指輪です。それだけです」

「三千万円か。俺には考えられない世界だな。で、犯人の特徴は?」

「若い男でした。野球帽を目深に被っていたのでわかりませんでしたが、まだ二十歳ほどかも知れません」

「うむ、本当にひとりなんですね?」

「はい、ひとりで入って来て、私の首に包丁を突きつけました。それで粘着テープで縛られ、その男は三千万円の指輪を持って逃走しました」

 新米刑事は警部に言った。

「また、闇バイトでしょうか?」

「わからん。捜査で大切なのは客観性だ。闇バイトかも知れないと頭から考えると真相を見誤る。おじいさん、その若者はあなたが三千万円のダイヤの指輪を持っていることを知っていたんですね?」

「わかりませんが、たぶんそうです」

「その指輪をあなたが持っていることを知っている人はどれだけいますか?」

「さ、さあ、なにしろ私は方々ほうぼうで自慢していたので・・・」

 

 

 二コハルは板チョコを食べ終えると、いよいよ、罪の意識が湧いてきて、犯罪は成功したのに、何か物足りなかった。

「この罪は闇に消えれば、罪にならないのか?いや、この罪は俺の腹の中だけに永遠に残るのだろうか?誰も知らない罪は罪ではないのか?いや、この罪を知っている者がひとりいる。それは俺自身だ」

 二コハルはまたアパートを出た。

 まだ暑さが残る、夕方だった。

 彼の足は自然とスーパーマーケットのほうに向かっていた。

 すると、スーパーの前の交番に複数のパトカーが停まり、警察官が物々しく出入りしていた。

「俺を探しているのか?いや、あれは誰も見ていない。知っているのは俺だけだ。それとも店の売り上げの計算が合わないとかでバレたか?いや、板チョコ一枚くらいでこんなに大騒ぎするかな?しかし、こんな住宅街の交番で警察官は何をやっているんだ?やっぱり俺を探しているのか?よし」

二コハルは交番に近づいていった。そして、ひとりの警察官ににこやかに声をかけた。

「こんにちは、おまわりさん。何か事件でもありましたか?」

警察官は一言言った。

「盗みだ」

二コハルはゾッとした。

「それはまさに俺じゃないか!」

二コハルは逃げるようにスーパーマーケットに入って行った。

 二コハルはチョコレートの棚の前に来ていた。そこには商品を整理する店員がいた。

二コハルは挨拶した。

「こんにちは、大変ですね」

店員は二コハルの顔を一瞬見て、「いらっしゃいませ」と言ってまた作業を続けた。

二コハルはそこで思った。

「今から、俺が盗んだ板チョコとまったく同じ物を俺が買ったら、店員はどんな顔をするだろう?」

二コハルは、その盗んだ物と同じ商品名の板チョコを手に取ってレジに向かった。

 レジでは普通におカネを払って、それを買うことができた。

 レジ係の女性が、「ありがとうございましたー」と笑顔で言ったとき、二コハルはその女性の罪のない笑顔を裏切っている気がして、自分の罪をその人に告げたい気がした。言葉は喉まで出かかった。

 スーパーマーケットを出ると、まだ交番では警察官たちが忙しそうにしていた。

 それを見た二コハルは思った。

「俺を捜し回っている。自首すれば、罪は軽くなる。しかし、まだバレていないようだ。自首しなければ、この罪は永遠に闇の中だ。いや、まて、この罪は俺の心の中だけに一生残るのか?俺だけがこの罪を一生背負って生きていくのか?それは重い。それはすでに罰だ。俺は真面目な奴だ。この罪を一生誰にも告げず生きていく。世の中すべてに嘘をついて生きていく。そんなことが俺に可能だろうか?それならば、自首して罰を受けて早く罪を償って人生を再スタートした方が良くないか?そうだ、罪の意識に苛まれた人生は不幸だ。よし、自首だ。そうだ、自首をしよう」

二コハルは交番に向かって歩いた。すべてを告白するために。自分の罪を告げるために。罪から自由に生きるために・・・。

 二コハルは交番の前に立った。

 警察官は言った。

「何か用ですか?」

「まだ、犯人は見つかっていませんか?」

「何か知っているのですか?」

「はい」

「何を知っている?」

警察官たちは二コハルに注目した。ひとりは交番の中へ行き、警部を呼び出した。

 警部は二コハルに訊いた。

「君は犯人を知っていると言うのかね?」

「はい」

「それは君の知り合いかね?」

「知り合いと言うのは相応しい表現じゃありません」

「知り合いじゃないと言うのなら、君は現場を見たのかね?」

「それも正確な言い方じゃありません。たしかに僕は現場にいましたが」

「現場にいた?どういうことだね?」

「つまり、やったのは僕です」

警部も含め、周囲の警察官の目の色が変わった。

警部は言った。

「君が盗んだのか?」

「はい」

「君、ひとりの犯行かね?それとも誰かに指示されてやったのかね?」

「僕が僕自身の意志でやりました」

「今、ブツはどこにある」

「もう腹の中です」

「なに?腹の中?飲み込んだのか?」

「はい。盗んだ物を食べるというのは、なかなかのものでした」

警部は交番の中から老人を呼んできた。

「この若者が盗んだと言うが、じいさん、この男かね?」

老人は言う。

「野球帽を目深に被っていたのでよくわかりませんが、たしかにこのくらいの体格でした」

二コハルは驚いた。自分の犯行が見られていたのだ。

警部は二コハルに言う。

「おい、じいさんに話しかけてみろ」

「え?なぜです?」

警部は老人に訊いた。

「声はこんな声だったか?」

「え、ええ。そんな声だったような」

警部は二コハルに言う。

「では、署まで来てもらおう」

二コハルはついに自分が罪人になったと、どこかホッとし、どこかこれからの人生に緊張したのだった。

 署に行くと、警部に連れられて二コハルは取調室に入れられた。

 二コハルは椅子に座らされ、机を挟んで、警部が座った。

「おまえはなぜ、あんなことをした?」

「英雄的行為の前の小さな罪は許されると思ったからです」

「なんだ?それは?」

「ドストエフスキー『罪と罰』です」

「君は文学青年か?」

「そういうわけではありませんが、退屈だったんです。夢も志もないし。かと言って、バイトをする気にもなれません。生活費は仕送りで足りていましたから」

「仕送りで足りていたのに、あんな物を盗もうとしたのはなぜだ?」

「罪を犯したかったからです」

「は?君はバカなのか?」

「バカだと思います。今となっては」

「反省する気があるのだな?」

「はい」

「では、ブツの話だが、まだ第三者に渡ってはいないな?」

「第三者に?僕はあれを食べてしまったんですよ?」

「食べた。本当かね?あんなに硬い物を?」

「硬いって、老人じゃあるまいし、僕の歯ならば楽に噛みきれますよ」

「な、なに?あれを楽に噛みきれるだと!嘘を言うな!」

警部は立ち上がり、バンと机を叩いた。

 二コハルは怖くなった。

「やっぱり、罪を犯した者に警察は容赦ないな」

警部は言った。

「誰にやれと言われた?これは闇バイトじゃないのか?」

二コハルは言った。

「闇バイトだなんて、あんな物を盗むために闇バイトがあるんですかね?」

「あるんだよ。おまえみたいな世間知らずにはわからないだろうがな」

二コハルは睨んでくる警部の眼を見ることはできなかった。

「僕はどんな刑に処されるんでしょうか?」

「それはまだわからん。君が捜査に協力してくれるなら、罰は軽減されるかもしれない」

「協力ってどうすればいいんですか?」

「ブツの在処を教えて、指示役についての情報をくれればいい」

「だから、指示役はいません」

「じゃあ、君の単独犯なのか?」

「はい」

「じゃあ、ブツはどこに隠した?」

「腹の中です」

「では腹を切り開いて取り出すしかないな」

「取り出すって、もう消化されてますよ」

「あれが消化されるわけがないだろう?」

「されるでしょう?」

「警察をバカにしているのか?あんな硬い物が消化されるわけがないだろう」

「硬くても、熱を加えれば溶けますよ。歯でも噛み砕けるし、もうカタチなんて残っていませんよ」

「時間稼ぎか?」

「え?」

「おまえはブツを手渡した人間が逃走する時間を稼いでいるんだろう?」

「違いますよ。僕の単独犯です」

「嘘を言うな!」

また警部は机を強く叩いた。

 二コハルは震え上がった。二コハルは泣きながら言った。

「僕はただ、小さな罪を犯して人生を強く生きようと思っただけなんです」

「何を言っている。それでおまえは、老人を縛り、三千万円のダイヤの指輪を盗むのか?おまえはもう強盗犯として一生を過ごさねばならないんだぞ!」

「え?ちょっと待って。老人を縛って、ダイヤの指輪を盗んだ?それは知りません」

「なに?今更、知らんと言うのか?やはり時間稼ぎか?」

「待ってください。僕はスーパーマーケットでチョコレートを万引きしただけです」

「は?なんだって?」

「僕は板チョコを盗んだだけなんです」

警部は呆気にとられて二コハルを見つめていた。

「じゃあ、食べたという硬い物というのはダイヤの指輪じゃなくて、板チョコなのか?」

「はい」

警部は立ち上がって、その拍子にパイプ椅子が倒れたのも構わず、取調室を出た。

「おい、この若者は犯人じゃない。ただの万引き犯だ!ダイヤを盗んだ男はまだ、逃走しているぞ!」

二コハルは取調室に一人残されてホッとしていた。

「やっぱり罪は犯すべきじゃない」

すると、警部とは違う別の警察官が来て、言った。

「では君は万引きの罪に問われることになる。もしかしたら公務執行妨害の罪もだ」

「え?」

「まあ、罰金刑になると思っていればいい」

二コハルは、万引きの罪は償う気はあったが、公務執行妨害というのは、ちょっと、と思った。

 しかし、それも二コハルは受け入れようと思った。

「これが俺の罪と罰だ」

                                    (了)

 

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