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『ジャンダルム』(13)午後の栄光【ノンフィクション小説】

穂高岳山荘で昼飯を食べた。
担々麺だ。


美味いには美味いが、以前この同じ小屋で食べた豚骨ラーメンとは比較にならなかった。普通の担々麺だった。そのあと私は天気もいいので涸沢岳に登ろうとサブザックを背負って出発した。しかし、少し登っただけで胃の中の担々麺が不協和音を響かせた。私はこれは少し休んでからでないと登れないと思い、小屋に戻った。たしか、記憶が定かでないが、恐らく、書棚にある深田久弥を読んだであろう。
外を見ると、空はガスが出てきた。私は涸沢岳を諦めることにした。いや、諦めると言うと少し違う。面倒だからやめたのだ。ここまで来て二十分で登れる行ったことのない涸沢岳に登らないのはもったいないが、チャンスが目の前に転がっていると人はいつでも手に入れることが出来ると勘違いするものだ。私は涸沢岳に行くチャンスを捨ててしまった。

山荘前テラスから常念岳方面


涸沢岳に登ることをやめた私はビールを飲もうと思った。前日、ワインを飲んで気持ち悪くなったことを教訓に、今日は350㎖の缶ビールにした。つまみは昨日に引き続き持参したコンビーフだ。私は小屋前のテラスで常念岳などを見ながらビールを飲み、コンビーフを食べた。しかも、このふたつの味には、ジャンダルム登攀者の栄光の味が付け加わっていた。明日は下山するだけだ。そう思うとこの午後が天からの贈り物のように思えた。


私は小屋で記念品を買おうと思った。最初から買おうと思っていたジャンダルムのTシャツを買った。これは昨日買っても良かったが、登攀後に買わねば意味がないと思った。他に、ジャンダルムの手ぬぐいと、穂高岳山荘のバンダナを買った。手ぬぐいは自室の壁に飾るために買った。バンダナは今後登山で使用するためだ。
そんなところに手ぬぐいの男が帰ってきた。
「いや~、涸沢岳にも登ってきました。天気予報が晴れると言ってるから必ず晴れ間が出ると信じて登ったら案の定、絶景を見ることが出来ました」
この人は日本の三千メートル以上の山を制覇することを目標にしている。涸沢岳も三千メートルある。私も登れば良かったと思ったが、やはり行けるところにいる者は行かないものらしい。それに私はアルコールを飲んでしまった。酔った体での登山は危険だ。私は結局、涸沢岳は行かずに終わった。
その代わり私は小屋の裏側である西側に向かった。夕陽を見られる場所を見たかったのだ。そこには夕焼け劇場と名付けられたテラスが用意されてあった。石垣で作られた土台の上に石垣のテーブルが西側を向いたカウンターのようになっていた。私はそのカウンターのない場所で地面に腰を下ろして西の空を見た。笠ヶ岳が雲の上に頭を出していた。まるで富士山のようだった。

中央は笠ヶ岳

左手には行ってきたばかりのジャンダルムが見える。これが夕陽を浴びて赤く染まったら絶妙だろう、そう思って夕陽が待ち遠しかった。

穂高岳山荘から見るジャンダルム


日没は七時、夕食は五時だった。
五時になると一旦、食堂へ入った。


向かいの席には手ぬぐいの男が座った。自然と彼と話をすることになった。
彼によれば、ジャンダルムに直登してきた男は同じ場所を降りて、人間の頭くらいの大きさの落石を次々と繰り返していたので、手ぬぐいの男は「やめろ、そこを降りるな」などと怒ったそうだ。私が降りるときに聞いた二回の「ドゴーン」という恐ろしい音はやはり落石の音だった。山の上は静かなので余計に大きな音がしたのだろう。
私は夕食を終えると、また小屋の西側に出た。夕焼けが美しい。私は何度もシャッターを切った。

夕陽と笠ヶ岳
赤く染まるジャンダルム
笠ヶ岳と落陽

日が沈んで小屋に戻っても、読書室の窓から残照が見え、これも写真に収めねばと、また小屋を出て裏に回り写真を撮った。

残照

今回の山行で最も多くの写真を撮った時間帯だった。
日が沈むと八時半まで私は独り読書室で深田久弥を読んだ。静かな夜だった。

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