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私がフォローする基準

私がSNSを始めたのは、まず、LINEであるが、これはほぼメールとして使っていた。
次に使い始めたのはnoteである。
LINEとnoteではSNSと言ってもだいぶ違う。私はSNSの定義がよくわからない。電話や手紙はSNSではないのか?よくわからない。
しかし、メールなどと違い、noteは不特定多数の人が読むものである。そして、フォローという機能がある。私はnoteを使い始めて初めてフォロー、フォロワーという言葉を身近に感じるようになった。
そして、フォローバックという言葉を知ったのもnoteである。
中には、フォロバ百パーセントなどという言葉を使う人もいる。これは「フォローしてくれればフォローを必ず返しますよ」という意味だ。
私はフォローしてくれたお礼にフォローを返すという文化があるのだと初めて知った。
たしかにフォローしてくれると自分が認められた感じがして嬉しいのだが、フォローしてくれたからフォローを返しますというのはどういうものだろう?
よくテレビなどで、フォロワー何万人を誇るタレントの誰それ、などと言う表現を聞いていた。フォロワー数がその人の価値を計るひとつの尺度になっているようだ。
私も初めのうちはnoteでフォローしてくれた人にはフォローを返していた。なにしろフォローしてくれることは非常に嬉しいことだからだ。
フォローの前に「スキ」をくれることも嬉しいことだ。私は今でも「スキ」をくれた人の記事には目を通すようにしている。そして、また読みたいと思ったらフォローすることもある。
もちろん、「スキ」を送ってくれた人でない人にもまたその人の記事を読みたければフォローする。
私はそもそもnoteを始めた理由は、SW(ソーシャルワーカー)として、福祉の活動に使うつもりだった。それゆえに初めの頃は福祉の対象になりそうな人を次々とフォローしていった。しかし、振り返って見ると彼ら彼女らの記事を読むことはほとんどない。
私は小説家になりたいという夢があったため、次第に自分の哲学や思想を述べる場になってしまった。そして、小説を発表する場所にもなった。
そうなると次第に福祉の関係のフォロワーよりも、小説の関係のフォロワーが増えてきた。私も福祉は関係なく好きな記事に「スキ」を送り、その人の他の記事を読みたいと思ったらフォローするようになった。
もう福祉目的で書いていないならば、素直に読みたい人をフォロ-するのはあたりまえのことだ。
フォローするのは、そうしておけばあとで検索しやすいからだ。
「スキ」にしても「フォロー」にしても、noteは承認欲求を刺激するものであることはたしかだ。
私は先にも述べたように小説家になりたいのだが、そもそも私は中学生の頃から有名人になりたかった。つまり承認欲求が極めて強い子だった。
それが最近、登山を趣味としていて、難しい山を登ったりすると達成感があり、それは承認欲求とはまったく別の心理が働いている。「やったー、登ったぞー」という全く承認欲求とは違う自己満足だ。たしかに、登った後、それについての記事をnoteに投稿しているが、別にそれを目的に登っているわけではない。これが登山家になって世界に名を馳せてやろうなどと考え始めたら承認欲求が働いていると言えるだろう。
では、小説をやめるかというと、そうではなく、小説家になるという承認欲求を持ちつつも、それだけに人生を捧げるのはつまらないかな?と思い始めている。
ではnoteをなんのために書いているかというと、やはり承認欲求なのである。特に小説が読まれることを望んでいる。しかし、現状は小説を読まれるより、エッセイの方が読まれている。たぶん、note読者は小説より、一般人の思想を読みたいのだろう。
私は承認欲求は悪いことではないと思う。
誰かに認められたいと思うことは誰にでもある感情のはずだ。
フォローバックという礼儀もそのような感情から生まれた文化であると思う。しかし、私はフォローバックというのがあまり好きではない。先に書いたように、本当に読みたい人の記事をフォローしたいからだ。
「良かった」という記事には「スキ」を送り、他の記事も読んでみたいと思う人をフォローする、それがあたりまえの「スキ」や「フォロー」の在り方だと思う。

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