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『ジャンダルム』(5)雨のザイテングラート【ノンフィクション小説】

横尾の夜は、蒸し暑く、私は夜中、布団の中で長袖を着ていたが、夢うつつにそれを脱いでTシャツ一枚になったことを覚えている。
朝、外は雨だった。
五時半の朝食を食べた。
私は山小屋の朝食を食べるのはこれが生まれて初めてだった。


しかし、私は朝食を食べて、荷物を整え出発するまでの間のことをあまり覚えていない。覚えていないことをフィクションで書くのはノンフィクションのこの小説の建前上やめておく。ただ、出発時、八十二歳のおじいちゃんとその連れが、カッパを着たり靴の紐を結んでいて、私は彼らを追い越して出発したことを覚えている。
六時半、やはり外は雨だった。
私は以前、この涸沢からザイテングラートを登る道を降りたことが一度あるが、一昨年のことだが、そのときも雨だった。ザイテングラートに私は嫌われているのかもしれない。
しばらくは樹林帯の中を歩いた。一度来た道なので地図を見なくとも、歩くことができた。
ザックカバーをザックに着けて、頭にはヘルメットを被っていた。
強い雨だった。
私は九時に樹林帯を抜け、涸沢テント場に着いた。しかし、ここには用はないため、涸沢小屋前でベンチに座り、持ってきたチョコパンをふたつ食べた。


私は今回湯沸かしの道具を持ってこなかった。山小屋でお湯をもらえばいいと思っていたからだ。しかし、この日の朝はお湯など要らないだろうと思い、もらわなかった。しかし、雨で体が冷えると、温かい飲み物はどうしても必要だと思える。これはひとつの教訓として覚えた。
私はチョコパンを食べて水を飲むと、すぐに出発した。
私の前方にはザイテングラートが見え始めた。この涸沢カールの中で、やはりその存在は、穂高に登りやすい天然の階段のように見えた。もちろん岩場であるから階段などではない。
前方には下山者が見えた。少人数で、途中折れて雪渓の方に歩いて行った。パノラマコースを降りるのだった。
私は先行者のいない、道を歩きザイテングラートに取り付いた。
雨が強く、険しい岩場だった。以前降りたときはこんなに険しいと感じなかった。登りと下りは違うのだろうか?それともあのときより今日のほうが雨が強いから難易度が上がって見えるのだろうか?
私はカッパを着ているとは言え、体中が濡れていた。
写真を撮ろうとウエストポーチのポケットからカメラを取り出したら、そのポケットの中に水がたまっていた。これはまずいと思ったが、面倒くさがりな私はなんとかなるだろうと思って、ポケットの中をバンダナで拭いて、再びカメラをそこに入れた。なんとかなるだろうと思ったのは余裕からではなく、カメラのことを考える余裕がなかったからである。


雨のザイテングラートは厳しかった。
私は雨が降ると登山は三倍難しくなるなどと考えた。
私は明日、ジャンダルムに登るのだ。このザイテンはジャンダルムの前戯だ、などと考えて、自分のアホさにニヤリと笑えた。
私は性的なことを登山中あまり考えない。そういうものを登山は忘れさせてくれる。女の美しさも、都会的な女より、自然の中で自然に発する美しさを好む傾向にある。そこには文化が色づけた女性の美しさより、自然の中でのありのままの女性の美しさが表われるようだ。化粧などした女は山では逆に醜く見える。都会の色眼鏡が外されるからであろう。
まあ、そういう考察は置いておくが、私はたしかに、ザイテングラートを前戯だと思った。
明日はジャンダルムに登る。その予行演習がこのザイテングラートだ。私は雨の中、三点支持を意識して岩を登った。
霧で上が見えない分精神的には負担があった。最後に小屋まで二十分という看板があったとき、私は「もう少しだ」と気分的に楽になったのを覚えている。
しばらく上がると、霧の中に建物の影が現れてきた。
穂高岳山荘である。
十一時十分に私は今日の目的地であるその小屋に到着した。以外と早く着いたと思った。

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