八ヶ岳、北横岳にて赤岳と対座する
六月、晴天。
私は北横岳南峰にいた。
午後一時。風はない。太陽がよく照る暖かい気候だ。
私はその山頂の南側の石の上に座って、じっと姿が露わになっている赤岳を睨んでいた。
この日、私は北横岳から足を伸ばして大岳に登っていた。行くときに北横岳から南を見たら、赤岳ら南八ヶ岳は雲を被っていた。
大岳に着いた頃から、次第に南八ヶ岳から雲が退いていった。
大岳からの帰りには、それらははっきりと姿を現していた。
北横岳北峰からもそれらは見えた。
他にも峰々は雲にかかっていたものの、その頂近くに残雪を見せる北アルプス、御嶽山、中央アルプス、南アルプスも見えた。しかし、それらは遠すぎた。
近すぎず、遠すぎないところにあるのが、五月に登ったばかりの南八ヶ岳だった。
私は北横岳南峰に移ると、すぐにロープウェイの駅まで下山しようと思った。
しかし、何かが私の足を止めた。
それはあの南八ヶ岳の盟主、赤岳だった。
「あいつと対座してやろう」
私はそう思い近くの座り心地の良さそうな石の上に腰を下ろした。
私は赤岳を睨みながら、先月の深夜から朝の赤岳登山を思い出していた。
あのとき、私は赤岳から日の出を見ようと思ったのだった。
だが、赤岳はそれを拒んだ。
霧が彼の周りを覆っていた。
ただ、寒い、それだけの山頂だった。
私はその山頂であいつとふたりきりだった。
もちろん「あいつ」とは赤岳のことである。
なぜ、彼は私を拒んだのか?
なぜ、今、北横岳にいる私にその姿を晒しているのだ。
答えは出なかった。
私は持ってきたカルピスのペットボトルの蓋を開けた。
カルピスは、去年、剣岳に登ったときに、山頂で力尽き、登る前に直下の山小屋剣山荘で売っていたそれを体の芯から欲したことから、私は山の上で飲むカルピスは極上だろうと思い、今回持ってきたのである。
しかし、大岳までのピストン程度では、剣岳から降りてきて剣山荘でようやくありついたあの美味さほどの極上を味わうことはできなかった。
だが、私は赤岳を見ながら、このカルピスを飲むと、なにか、心の芯から沸々と込み上げて来るものがあった。
それは赤岳への晴天登山の願望か、それとも、この夏に行こうと思っているジャンダルムへの思いなのかわからなかった。
赤岳よ、おまえは晴天で私が登るのを待っていてくれると言うのか?
おまえにはまた登って見たい。
そして、今、おまえの向こうにあるであろう富士を、できれば日の出と共に見たい。
その願い、叶えてくれるか?
・・・。
そうか、沈黙か・・・。
山は黙っている方が良い。
しかし、その姿は能弁に何かを私に語りかけてくる。
無言の語りだ。
そうだ、山は無言だから、人間が代わりに語らねばならない。
赤岳よ。
おまえの頂で、日の出を見たとき、私は何を思うだろう?
もう一度、か・・・。
山はたくさんある。私が登りたい山は他にもたくさんある。
赤岳よ。
おまえの順番はいつになるかわからぬ。
しかし、約束しよう。
必ず、また登ると。
私はカルピスを飲み干し、立ち上がると、北横岳山頂をあとにした。
空は晴れたままだった。
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