『ジャンダルム』(6)ザックカバーを盗んだと疑われたこと【ノンフィクション小説】
私は穂高岳山荘で受付を済ますと、雨具とザックを乾燥室に入れた。
乾燥室は多くの登山客の服などが吊り下がっていて、立っていると前が見えないほどだった。床にはいくつかのザックが置かれてあった。私は自分のカッパとザックカバーをハンガーにかけた。そのとき、ザックカバーが床にぽたりと落ちた。私はそれを拾い上げると、床に座っていた若い女性が、「ユアーズ?」と訊いてきた。英語だが、彼女は英語をあまり知らないようだった。韓国人だった。私は、「イエス、ディスイズマイン」と答えた。それでも彼女は疑っているようだった。
乾燥室を出ると雨具などは廊下で乾かしてくださいと書かれてあったので、私は乾燥室に置いておくとトラブルの種になりそうだから、カッパとザックカバーを乾燥室から出して、部屋の前のフックにかけた。そして、自分は着替えを持って部屋に入り、誰もいないのを確認して、服を脱いで、濡れたパンツまで脱いで乾いた服に着替えた。新しいズボンも少し湿っていた。
そして、また部屋を出ると、今度は韓国人の男性が私に声をかけてきた。後ろには先ほどの女性がいる。彼はフックにかけてある私のザックカバーを見て、「これはあっちから持ってきたのではないか?」と英語で言った。私は久しく使っていなかった下手な英語で、「私はあっちまで行っていない」と答えた。私の部屋は階段を登ってすぐだったので、彼が指さす奥の部屋には行っていなかった。それでも彼は私を疑っているようで、私が英語が苦手だと言うと、スマホの翻訳機能を使って「このザックカバーは彼女のと同じだ」と日本語の文章で見せてきた。私は「私のザックカバーもこのメーカーの物だ」と答えた。あまりに疑うので、私は彼を乾燥室に導いて、そこにあった私のザックを指さして「これが私のザックだ」と言って、そのメーカーのロゴを見せたら納得した様子だった。私のザックカバーはザックに内蔵されている同メーカーの物だったのでわかりやすかった。
あとで、ザックを乾燥室に置いておくのもトラブルの原因になるかもしれないと思い、まだほとんど乾いていないザックを持って、部屋の前にそれを置いた。そのとき乾燥室で年輩の男性が、私のザックカバーと同じ色、同じメーカーの名を上げて、「私のザックカバーがない」と言っていた。私はある疑念が頭をよぎったが、トラブルに巻き込まれるのは嫌なので無視することにした。
私はこの件で韓国人が嫌いになりそうだった。談話室を占拠していた韓国人のグループを嫌う気持ちがどこかにあった。しかし、それはいけないことだ。彼らは韓国人の代表じゃない。彼らも日本の山に、楽しみに来ているのである。そこで物がなくなった、盗られたというのは、外国旅行に行けば、疑い深くなる日本人の私も同じだ。
しかし、疑われて不快に思わないわけがない。それでも私はこの不快はこれでおしまいにしようと思った。明日はジャンダルムに登るのである。命をかけて登るのである。ザックカバーを盗んだなどなんだのというのは細々しいことだ。そんなことを考えながら登攀に臨むのは死ぬリスクを非常に高めるだろう。第一楽しくない。
私は明日のジャンダルムに気持ちを高めていくためにこの午後をどうしようかと考えた。
外は相変わらず強い雨である。