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「良くなる」ための「心のリハビリ」

私は統合失調症を患っている当事者で、統合失調症からの心のリハビリについて書いている者だ。

リハビリテーションとは、何かを喪失していて、それを再び回復するものだと辞書には載っている。
私の考える「心のリハビリ」は統合失調症になった者が健康を取り戻す過程のことだ。いや、健康を取り戻すと言うより「良くなる」ことを目指すものだと考えている。

上田敏(うえださとし)という医学者は言う。

「リハビリテーションとは『人間らしく生きる権利の回復』すなわち『全人間的復権』であり、過去の生活への復帰であるよりもむしろ『新しい人生の創造』なのだ」


ところで、私はソーシャルワーカーだが、ソーシャルワークには二十世紀、「医療モデル」から「生活モデル」への転換があった。これはどういうことかと言うと、ソーシャルワ―クではもともと、病気や障害のある人を治すというイメージで福祉が考えられていた(「医療モデル」)。しかし、病人ではなく生活者として当事者を見るようになり、生活の在り方をノーマルにして行こう、障害があっても、その人らしく生活できる社会にしようという「生活モデル」が台頭してきた。現在もそれは続いている。

私は自分が考える「心のリハビリ」とは「医療モデル」なのか「生活モデル」なのか考えてみた。

すると、かなり「医療モデル」的な考えで「心のリハビリ」を考えていることがわかった。一見生活モデルなのだが、根底には「統合失調症を治したい」という医療モデル的な考え方がある。つまり、例えば、規則正しい生活は病状を良くするため、働くのは病状を良くするため、などと言える。良い人間関係なども「心のリハビリ」として役に立つ。良い生活自体が「心のリハビリ」で、それを続けることで病状が良くなる。さらには、人生が良くなる。

こうなると、まるですべてが「心のリハビリ」であるかのようでかなり窮屈な考え方になってしまうと思う。しかし、このように考える理由には切実な事情がある。

私は十六歳で統合失調症を発症し、二十一歳で初診を受けた。現在、四十二歳だ。二十四歳から働き始め、いろいろな職を経験し、三十四歳から現在に至るまで介護職員として働いている。毎朝「もっと眠っていたい、仕事なんかもういいや、僕は障害者だから」などと甘えたことを思う度に、「あの頃に戻りたいのか」と発症した頃、地獄の業火に焼かれるように苦しんでいたあの頃、常に死にたいと思っていたあの頃を思い出し、「絶対に戻ってたまるか」と、自分に鞭打って出勤している。朝だけではない。事あるごとに、「心のリハビリ」を意識せざるを得ない生活をしている。

統合失調症は医師の処方した薬を長期に渡り飲み続けることが大切だと言われている。
「心のリハビリ」も同様で、長年に渡り継続することが大切だ。

一年経っても治らないからと、中断してはならない。
五年経っても治らないからと、中断してはならない。
十年経っても治らないからと、中断してはならない。

私は二十年、「心のリハビリ」を続けてきた。二十年前と比べれば、見違えるように良くなっている。しかも、まだ途中だ。もっと良くなると信じている。「良くなる」とは「健康になる」ことではない。健康を通り越しても限りなく良くなっていく。一生、際限なく良くなっていくと私は信じている。到達点はない。これは「幸福」というものを人生に求める考え方とは遠いところにあると思う。私は「結婚しているから幸福」とか「家族がいるから幸福」などと幸福に条件を求める考え方はしない。逆に「ホームレスでも幸福」というような条件を無視した哲学に傾くこともない。「幸福」の反対には常に「不幸」があり、自分が幸福であると思っている人は常に不幸に転落することを無意識に怖れている。

私が考える「良くなる」という思想は、不幸から幸福になる過程ではない。じゃあ何か?それはよくわからない。そもそも不幸や幸福とは何かを言葉にできる人もいないだろう。

だから私は、「良くなる」と考えたい。

人生が「良くなる」ように。

死ぬ瞬間まで良くなれたら最高だ。

私は信じ続ける。

すべてが「良くなる」ように。


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