宮崎駿『魔女の宅急便』の結末と『君たちはどう生きるか』
*ネタバレあり
宮崎駿の『魔女の宅急便』のラストでは、主人公のキキは空を飛ぶ魔法を取り戻すが、猫と喋ることまではできない。それはなぜか?
私は長い間、宮崎駿の言語化できない諦念くらいに思っていた。
彼も落ちたことのあるであろうスランプを乗り越えるときにできた、子供の頃のように何にも考えなくとも空を飛べることは大人にはないという諦念。
『耳をすませば』では中学三年生の月島雫は読書をしていても最近面白くないと言う。
これも大人になったら純粋な心が減っていくみたいな意味かと思っていた。
しかし、『君たちはどう生きるか』を見て、宮崎駿はこの諦念に大きな人生の真実を見ていたのだとわかった。
つまり、『君たちはどう生きるか』の眞人は、大伯父から美しい世界を継ぐことを拒否する。頭に自らつけた傷は、「悪意の印」だと言う。そして、元の世界に帰って友達を作ると言う。
ここで『魔女の宅急便』に戻るが、キキは新しい町に来て友達ができない。トンボの仲間が不良に見えてしまう。トンボとは仲良くなるが、他の子と友達になれず、魔法が使えなくなってしまう。十三歳のことだ。しかし、物語のラストでトンボを必死で救おうとして魔法を取り戻す。しかし、猫のジジの言葉はわからないままだ。そして、エンディングでは不良に見えていた女の子と友達になって話をしている場面がある。これなのだ。
『君たちはどう生きるか』で眞人が選んだのは、悪意のある、不良かも知れないが友達のいる世界なのだ。大伯父のようにひとりの美しい世界にいることを拒否したのだ。
これは凄いことだ。
アニメの巨匠が、アニメの世界に生きることを拒否しているのだ。
いや、眞人は最後に、「向こうの石」を持って帰って来ている。
悪意のある現実を選びながらも宮崎駿はアニメを作った。
そういえば、何かで読んだが、宮崎駿は「アニメを本気で作ろうとすれば友達が減ることを覚悟しなければならない」みたいな意味のことを言っていた。たしか、『カリオストロの城』か『風の谷のナウシカ』の頃だ。
宮崎駿はこうも言う。マンガ『風の谷のナウシカ』でのセリフだ。うろ覚えで恐縮だが、「世界は清浄と汚濁だけでは捉えられない」みたいな意味のセリフをナウシカが言っていた。
アニメ=清浄、現実=汚濁、というふうばかりには言えない。そもそも現実の中にアニメはあるのだ。
宮崎駿のリアリズムはそこにある。
『紅の豚』で「世界って本当にきれい」と戦闘機に乗ったフィヨのセリフがある。
戦争の道具である戦闘機。カッコイイ戦闘機。
それを描くアニメは、戦争を後方支援している。
宮崎駿は『紅の豚』を「作ってはいけないモラトリアム映画だった」と自戒しているが、モラトリアム(猶予期間)と言っている以上、彼は初めから、『君たちはどう生きるか』で言語化されるテーマを言語化できていなかったのだと思う。マンガを描いたり映画を作るうちに次第に、清浄と汚濁を共に生きる人生観に辿り着いたのだと思う。
ブッダやキリストにでもなれば尊敬はされるが友達は失う。
美しい世界を生きたい。でも、友達は失いたくない。
それが宮崎駿が『魔女の宅急便』であのようなラストを作った思いだと思う。
友達と夢、天秤にかけたら君たちはどちらを取るか?
キキは友達を救うために飛んだ。
それは弁証法ではない。
キキは友達を選んだのだ。
宮崎駿はまだまだ深い。