『空中都市アルカディア』28
四、善の王国
シロンが戻って来たときには、すでにカルスは落ちたあとだった。もう三権の長は帰途についていたし、周りを取り囲んでいた群衆も散り散りになっていた。
仕方なくシロンは憂鬱な気持ちと共に家に帰った。
夜、キングサイズのベッドで目が覚めたまま天井を見上げていると、ドアを叩く音がした。シロンは誰だろうと思ってドアを開けようと近づくと木製のドアを突き破って剣が刺し込まれた。
「うおっ」
シロンは避けたが、わき腹を掠った。パジャマが血で赤く染まった。シロンは痛みに堪えて状況を考えた。これはシマクレスの放った刺客だ。目的はシロンを殺すこととシマクレスの過去の罪の証拠隠滅。ドアの外に数名。窓の外、二階のバルコニーには誰もいないがその下には人数がいるだろう。逃げようか、どうやって?ホバーボードに乗って、二階の窓から外へ出てバルコニーから飛び出れば、敵が待ち構えていてもなんとか逃げられるだろう。だが、それからどうすればいい?シロンは考えた。すると、バルコニーに人の気配がした。考える時間はなかった。ドアを斧で叩き割る音がする。シロンは血の付いたパジャマのまま、あのペンダントをポケットに入れ、封筒を懐に入れてホバーボードに乗り、二階の窓ガラスを体当たりで破って外へ出た。やはりバルコニーには刺客がいた。が、シロンは刺客を蹴散らし、バルコニーの柵を飛び越えて下へ降りた。下にも人数がいたがシロンはそれらの者の頭を飛び越えていた。シロンはホバーボードを走らせた。
「俺を匿ってくれそうな人は?ライオス?あいつは下部のビルの住居にいる、遠いし、安全が確保できるかわからない、ダメだ。オクティス?行政長官公邸、こんな夜中に入れてくれるだろうか?ユラトン教授?そうだ、あの人ならば」
シロンはユラトン教授の家を目指した。街灯の灯る学生街を滑走した。後ろを見ても誰も追って来なかった。だが、油断はできなかった。シロンは猛スピードでユラトン教授の家を目指した。
ドンドンドン。
シロンはユラトン教授の家の木の門を叩いた。門番が覗き窓を開いた。彼はシロンの顔を覚えていた。シロンは何度もこの家に歴史を学びに来ていたからだ。門が開きシロンを入れると門は閉ざされた。
玄関に円錐状の先の垂れたナイトキャップを被ったパジャマ姿のユラトン教授が出迎えてくれた。
「どうしたのだ?」
シロンは言った。
「俺、狙われているんです」
「誰に?」
「たぶん、シマクレスです」
「なぜ?」
シロンは全てを話した。
ユラトン教授は言った。
「では、明日、アゴラでホバーボード制限法の議論がある。そのあと、司法長官に裁判を依頼しなさい。シマクレスは失脚だ」
翌日、晴天の下、アゴラで議会があった。ホバーボード制限法案についてだ。
シマクレスはどこか不安げな表情をして演説台で言った。
「昨日の事件、あのようなテロ事件が起きた以上、ホバーボードは制限しなければなりません。ホバーボードは市民の足として大変日常的に使われている乗り物です。だが、悪用されるととんでもない凶器になる。そこで、わたしはホバークラッシュのみを禁じる法案をこの議会に提出しました」
そして、投票があり法案は賛成多数で可決された。ホバークラッシュはアルカディア下部市民の一番人気の娯楽だったが、投票権のある自由市民はそれを禁じる法に賛成票を多く投じた。
これにはライオスのようなホバークラッシュのメダリストは不満だった。なぜなら自分たちがアルカディアにいるのはホバークラッシュがあればこそだからだ。だが、多数決でホバークラッシュは禁止された。
で、議会は解散かと皆が思ったとき、司法長官が言った。
「今から、立法長官シマクレスの裁判を行います」
アゴラはざわめいた。
シマクレスの裁判?シマクレスほどの聖人君子はいない、それが市民の常識だった。
司法長官は起訴状を読んだ。
「シマクレスはアカデメイア在学中の頃、ネオ・アテネより来た同い年の家政婦と肉体関係を結び、彼女が妊娠すると事の発覚を恐れ、毒を飲ませ下界に追い返した。彼女はその後流産し発狂した」
司法長官はシロンを見た。シロンはユラトン教授に借りた古代ギリシャ風の白い服を着、足首をベルトで固定した革のサンダルを履いて司法長官席を正面に見上げる位置に立っていた。
「起訴人、シロン、あなたは偽りを言ってはいませんね?」
シロンは答えた。
「はい、真実です」
司法長官はシマクレスに言った。
「被告、シマクレス、これは事実ですか?」
シマクレスは動揺した様子で答えた。
「わたしにそんな過去があるわけがないでしょう。わたしは善の王国を作ろうとしている徳を重んじる人間です。自分にそんな不道徳があっては善の王国など実現できないでしょう」
司法長官は例のペンダントを見せた。
「このロケットの写真に写っているのはあなたとその被害者ではないのですか?」
シマクレスは何も言わなかった。
司法長官はその写真をアゴラに集まった市民たちに廻して見せた。市民たちはこれは間違いなくシマクレスであると判断した。
アイリスはシマクレスに囁いた。
「しっかり、こんな出鱈目が通ってはなりません。あなたは世界一の徳高き者、善の王国の王となる者なのでしょう?」
シマクレスは冷汗が出ていた。
司法長官は言った。
「ここに、被害者の手紙があります。読んでもかまいませんか?シマクレス。読む前に自白すれば少しは罪が軽くなるかもしれませんよ」
シマクレスは狼狽えて言った。
「ミレネが飲んだ毒は脳を狂わせる物のはずだ。そんな手紙を書けるはずがない」
司法長官は口元を皮肉な笑みで歪めて言った。
「ほう、ミレネという女性にあなたは毒を飲ませた。間違いありませんね?」
シマクレスは青ざめた。
「ち、違う。わたしは毒など・・・」
シマクレスはアゴラを見まわした。すべての人が敵になったようだった。
シマクレスは言った。
「ああ、そうだ。わたしは若かった。彼女は美しかった。あんなに美しい女が我が家で毎日働いていたんだ。わたしの性欲は限界に達していた。わたしはある晩彼女の部屋へ侵入した。そして、ことを成した。一度味を占めるとやめられなくなった。毎晩のように通った。そして、妊娠がわかったとき、わたしは将来の名声に傷がつくことを怖れ、彼女に毒を飲ませ下界に帰してしまった。・・・ああ、もうダメだ。わたしの政治生命は終わった。いや、もう、アルカディアにはいられない。それは生きる場所を失ったも同然だ」
司法長官は言った。
「では、自分の犯した罪を認めますね?」
シマクレスは下を向いて言った。
「はい」
シロンは言った。
「司法長官、その手紙を読んでください」
司法長官は言った。
「これは被告本人が読むべきでしょう」
司法長官はシマクレスにミレネからの手紙を渡した。
シマクレスはそれを読み始めた。
あなたへ
あなたは家政婦であるわたしにしてはいけないことをしました。あなたは若いけれども人格者として将来が有望視されていました。もし、わたしが世間にこのことを公表したらどうなるでしょう。あなたの人生はおしまいです。わたしはあなたがわたしのワインに毒を入れたことを知っていました。わたしは考えました。これを飲めばわたしの人生はダメになり、あなたは周囲の期待通り出世するでしょう。しかし、わたしが毒杯を飲まずにあなたとの関係と妊娠を公表したらあなたの人生はダメになるでしょう。どちらを選ぶかはわたしの手にゆだねられました。わたしは毒杯を飲むことにしました。わたしの人生などあなたの人生に比べたら価値のないような物だと思って。ただ、わたしは本当はあなたの赤ちゃんを産みたかった。世界で最高の男性の赤ちゃんを産む。わたしはあなたを愛していました。あなたは罪を犯しましたがわたしにとってはそんな罪などどうでもいいくらいに愛している世界一の男性なのです。最近、発作が頻回になってきました。こんな手紙ももう書けなくなるでしょう。わたしは下界であなたのことを思いながら一生を過ごします。天国で会えたら嬉しいです。またお会いできることを祈って。
ミレネ
この手紙にはシマクレスの名前はなかった。ミレネの愛の深さにシマクレスは自分の愚かさを恥じて情けなくて涙が溢れてきた。シマクレスは泣き叫んだ。そして、突然走り出した。アゴラに集まった人々はまるで海が割れるように道を開けた。シマクレスはアゴラの外へ出て大きな凱旋門を出た。そこには多くの下部の住人が集まっていた。その者たちの間をすり抜け、泣き叫びながら、都大路を走り、パンテオンの向こうの庭園に向かった。アイリスが走って追い駆けた。シロンも走ってそれに続いた。ライオスはしばらく考えていたが、オクティスにひとこと言って、ホバーボードで追い駆けた。他の人間は動かなかった。目の前で最高権力者の名声が地に堕ちたことを半分理解できていなかったのかもしれない。
ホバーボードのライオスは、走っているシロンとアイリスを追い抜いた。そして、パンテオンの近くでシマクレスに追いついた。
「シマクレス、どこへ行く?」
シマクレスは走りながら言う。
「わたしは死ぬ。エンペドクレスの飛び込み台から飛び降りて」
ライオスはホバーボードを止めた。シマクレスは庭園の森の中へ消えた。ライオスは自分がわからなかった。シマクレスというこの男は自分からホバークラッシュを取り上げた男だ。そして、ライオスから見れば、両親をアルカディア自由市民に持ち、アイリスの婚約者という恵まれ過ぎた人間だ。助ける気になれなかった。ライオスは自分が着ている護衛官の白い制服を見て考えた。
「自分は行政長官オクティスの護衛官なのだ。この立法長官シマクレスの護衛官ではない。立法長官が自殺しようが自分の職務にはなんの関係もない」
と、ライオスはぼんやりと思い、動けずにいた。
そこへ、アイリスとシロンが追いついた。
アイリスはライオスに言った。
「シマクレスは?」
「エンペドクレスの飛び込み台から飛ぶそうだ」
「なぜ、止めないの?」
「いや、なんとなく」
アイリスはライオスからホバーボードを奪って乗った。久しぶりに乗ったのでふらふらしながら進んだ。それでも走るより速かった。
アイリスが森を抜けエンペドクレスの飛び込み台に着くと、ふたりの人間がいた。シマクレスと小太りで頭の禿げた中高年の男性だった。
「ちょっと待った」
禿げた男性は小さな凱旋門の下で飛び込み台のほうにいるシマクレスに言った。
「あなたは若い。死ぬことはない」
シマクレスは言った。
「わたしの人生は、もうおしまいなんだ」
シマクレスは飛び込み台の先に立ち、下を見下ろした。白い雲で下界は見えない。雲の下にはエーゲ海があるはずだ。
アイリスはホバーボードを投げ出して小さな凱旋門の下へ走った。凱旋門のアーチの下で禿げた男性と並んだ。
「戻って来て、シマクレス。あなたが死んだらわたしはどうなるの?」
シマクレスは飛び込み台の先端に立って振り返った。
「アイリスか・・・君は優秀な人間だ。わたしの婚約者だったことは今後、君のチャンスを高めることになる。つまり、悪人シマクレスに騙されていた美貌の才女。君の将来はバラ色だ」
「そんな、わたしはあなたに比べたら下賤な人間です。下界で生まれ育ちました。わたしはあなたの妻になることで本当のアルカディア人になりたいのです。ふたりで善の王国を作ると約束したじゃないですか?」
シマクレスは言った。
「善の王国か・・・。女を犯し毒を飲ませたわたしに、善の王国が作れると思うか?こんな犯罪者に誰が付いて来る?」
「わたしが付いていきます。あなたは罪を犯したかもしれません。しかし、愛している人が罪を犯したことがあると知って、その愛がなくなるなど本当の愛と言えるでしょうか。わたしはあなたを本当に愛しているのです」
アイリスは毅然とした態度でエンペドクレスの飛び込み台の上を、先端にいるシマクレスのほうへ歩み寄った。
「アイリス!」
シマクレスは言った。そのとき、ようやく小さな凱旋門の下にシロンとライオスが到着した。
ふたりはちょっと待ったおじさんの隣で飛び込み台のほうを見た。
「アイリス!」
シロンの声にシマクレスのほうへ歩いて行くアイリスは振り返った。
「シロン、ライオス」
ライオスは言った。
「アイリス、どうする気だ?」
アイリスは言った。
「わたしは、シマクレスと結婚します。シマクレス、あなたはわたしにとって理想の男性です。わたしは幼い頃から理想の島、アルカディアを下から見上げ、憧れて育ちました。そのアルカディアで最高の男性がシマクレス、あなたなのです。そんな理想の男性と共にあるのがわたしの幸福なのです」
「だが、わたしはもう君の理想なんかじゃない。破滅した男だ。もうアルカディアで今までのように暮らすことはできない。それはわたしにとって死を意味する。わたしはここから飛び降りて死ぬ」
シマクレスがそう言うとアイリスは言った。
「では、わたしも共に死にます」
「え?」
驚いたのはシマクレスだけではなく、シロンとライオスもだった。
「アイリス、わたしとここから飛び降りてくれるのか?」
そうシマクレスが言うと、アイリスは言った。
「わたしたちはふたりでひとつ、この世に善の王国を作れずとも、死後の国の王となり、あの世に善の王国を作りましょう。そこは理想の国、アルカディアよりもずっと完璧な国」
アイリスはついにシマクレスの手の届くところに立った。
シロンは叫んだ。
「アイリス!」
アイリスは振り返ってシロンを見た。
シロンは言った。
「おまえが死んだら、俺たちの未来はどうなる?」
「俺たちの未来?」
アイリスは首を傾げた。
「アイリス、俺は四年前、おまえがアルカディアに行き自分が地上に残った、その後に気づいたんだ。俺はおまえを愛していると」
「シロン・・・」
アイリスは悲しい目をした。ライオスも驚きの表情でシロンの横顔を見ていた。シロンは続けた。
「アイリス、俺と結婚してくれ。死なないで、生きて俺と結婚してくれ。おまえこそ、俺の理想なんだ。いや、ただの理想じゃない、現実を共に生きるパートナーになって欲しい」
アイリスは首を横に振った。
「ごめんなさい。わたしは理想主義者です。あなたはわたしの理想ではない。かけがえのない幼馴染ではあるけれども、わたしの理想の男性はこの人、アルカディアで最高の男性シマクレスただひとり」
アイリスはシマクレスを見つめた。シロンは言った。
「アイリス!目を覚ませ!人生は理想だけじゃない。そうだろ?そう思わないか?たしかに俺たちはずっとアルカディアを見上げて生きて来た。でも、俺たちの人生は理想だけじゃなかったろ?」
アイリスはまた、シロンを見て言った。
「シロン、あなたの人生がどうかは知りませんが、わたしにとってアルカディアに来てからの四年間の暮らしは理想そのものでした。シロンはアルカディアに来て日が浅いからまだ愚者の香りが抜けていないようですけど、アカデメイアできちんと学べば、理想、善の王国を理解できると思います」
アイリスはシマクレスの手を取った。
「さあ、シマクレス。わたしはどこまでもあなたと共に行きます」
シマクレスはアイリスを抱きしめた。そして言った。
「ああ、わたしはすべてを失ったが、今、すべてを手に入れた。アイリスは世界最高の女だ。わたしはこの女と共に死ねるのだ」
アイリスはシマクレスの胸に顔を埋めて言った。
「ああ、嬉しい」
シマクレスとアイリスは抱き合ったまま空中へ体を倒し、そのままシロンたちの視界から消えた。
「アイリス―!」
シロンとライオスはエンペドクレスの飛び込み台の先端に行き膝をついて下を覗き込んだ。下は雲があって真っ白だった。
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