『空中都市アルカディア』20

四、アイリスとシマクレス

 立法長官公邸は島の上部北端の凱旋門内アゴラ近くにある白亜の宮殿だ。そこに立法長官のシマクレスが召使いたちの世話を受けて暮らしている。

 婚約者のアイリスはまだ結婚していないため、凱旋門の外の都大路西側の邸宅に住んでいる。アイリスは自由市民となったばかりで、まだ両親をアルカディアに呼んでいなかった。結婚式には呼びたいと思っていたが、試験勉強に忙しく機会を逃していた。ひとり暮らしだが家政婦が二名いる。この家政婦はカルスの姉ミレネのような家政のスペシャリストとしてアルカディアに来たのではない。じつは空手や柔道などのメダリストだ。女性の格闘家は女性の自由市民の護衛官となることもある。中には女性のホバーボーダーもいる。ホバーボードはその機動性が格闘技にはない物として尊重されている。

 

 

 アイリスは毎日、立法長官公邸に通っている。仕事はしていない。それが自由市民の特権だ。毎日、シマクレスの側で遊んでいる。シマクレスの執務中は、ピアノを弾いたり、絵を描いたりなどして過ごしている。そして、シマクレスと夕食を摂ったら、家に帰るのだ。アイリスは今、人生を堪能していた。アイリスは昔から学業と趣味を両立させてきた。今は学業から解放されて趣味に打ち込むことができるようになった。だが、長年学業を務めてきた習慣から学業をやめてしまうことはなかった。アイリスは新聞を読んだ。図書館で借りた書物を自宅に持ち帰って読んだ。政治についての書物だ。立法長官の妻に相応しい女性になるための勉強だ。もちろんそんなものは学生時代に充分勉強してきていたが、アイリスの性格上充分ということはありえなかった。

 シマクレスが仕事から帰ると、古代ギリシャ風の白いワンピースを着たアイリスは玄関で出迎えた。

「お帰りなさい」

「ただいま」

そこで必ずふたりはキスをした。

 シマクレスはアイリスが昼間に描いた絵を見て言った。
「ほぉ、これは旧世界だね。旧世界のジパングだね」

「さすが、シマクレス、教養があるわね」

「ふふ、ぼくを甘く見ていないかい。ぼくはこのアルカディア生まれアルカディア育ちなんだ。世界の情報はすべてここに集まるんだ。物心ついた頃からそういった情報の中にいたんだからね。ほら、この小さく見えるのは富士山だろう?」

「そうよ、さすが」

「でもね、アイリス、京都から富士山は見えなかったはずだよ」

「知ってるわよ、そんなこと。絵は写真じゃないのよ。この絵は日本のイメージを凝縮してみただけ。さあ、食堂へ行きましょう。今晩の料理は日本の懐石料理にしてもらったわ」

「おお、アイリス、夕食に芸術を合わせるなど、さすが君だ。なんだか旧世界の日本に行ったことがあるような気がしてきたよ」

 ふたりは食堂へ向かった。

食堂にはシマクレスの両親がいた。婚約者ながらアイリスはシマクレスの家族のようになっていた。シマクレスの両親もアルカディア生まれアルカディア育ちだ。品があり人間のお手本のような人たちだ。

シマクレスは食卓に着くと言った。
「今日はホバーボード禁止法案を議論してきたよ」

母親は言った。
「で、どうだったの?あの野蛮な乗り物は禁止になりそうなの?」

シマクレスは答えた。
「ぼくが絶対、禁止に持っていくよ。とくにあのホバークラッシュ、あれは危険すぎる。結論から言うとスポーツとしてはスピードレースが残って、移動手段としては禁止の方向で行くよ。ホバーボードの交通事故が多いからね。危険は未然に防がないと。アイリスはどう思う?」

アイリスは言った。
「たしかに、ホバーボードは危険ね。とくにホバークラッシュは野蛮だと思うわ。わたし、じつは幼い頃からホバーボードには乗っていたの」

シマクレスの父親は笑った。
「ほほほ、さすが、下界育ちだね。たくましいお嬢さんだ」

アイリスは言った。
「でも、シマクレスの意見を聞いて納得しました。ホバーボードの愚かさを」

シマクレスは言った。
「うん、ぼくはこのアルカディア上部になぜコロッセオがあるのか疑問なんだ。昔は剣闘士が殺し合っていたそうだ。それが今ではホバークラッシュだ。あんなもの大衆のつまり愚者たちのスポーツだ。あんなものに熱狂するのは人生を無駄に過ごしているとしか思えない。なぜ、その愚者たちのスポーツの会場が上部にあるのか。ぼくはね、せめてコロッセオを下部に移設したい。あれは上部にあってはいけない」

アイリスは言った。
「素晴らしい意見だわ」

シマクレスは言った。
「ぼくの理想は争いのない世界を作ることだ。そうなると勝負を決めるゲームはすべて禁止することになる。ぼくはそれでいいと思う。人間の優劣は人としての品格以外の尺度で決めるべきではないからね」

アイリスは言った。
「本当に同感です。品格は数字や形にできないので愚者には理解できないけど、学問を積んだわたしたちには明らかにわかるものですからね。わたしたち、自由市民が禁止してあげないと愚者たちはいつまでも愚者ですものね」

シマクレスの父親は言った。
「アイリス君はまるで生まれも育ちもアルカディアみたいだね」

アイリスは笑った。
「ありがとうございます。そう言って頂けると嬉しいです」

シマクレスの父親は言った。
「シマクレスよ、おまえたちはいつ式を挙げるのだ」

シマクレスは言った。
「今日にでも挙げたいのですが、なにか政治的に記念となることをしてからにします」

「具体的には何をしたらなんだね?」

「さっき言った、ホバーボード禁止法案の可決です」

シマクレスがそう言うと、アイリスは笑顔で言った。

「じゃあ、ホバーボードが禁止されたらわたしたちは結婚できるのね。ああ、わたし、天にも昇る気分よ」

シマクレスは言った。
「ここはもう天の上だよ」

一同は笑った。

 食事が終わるとアイリスは伴の者と自宅へ帰った。




  前へ   次へ


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?