noteを書いていて思うこと
僕はnoteに哲学や文学について書いているのだけど、僕よりも教養があり知性がある人が読めば全然大したことはないことを僕は書いているのかもしれない。
それは恥ずかしいことだろうか?
無知をさらけ出すような真似をすることは恥ずかしいことでやめるべきだろうか?
僕はそう考えない。
教養があるなしに関わらず文章を発表できるところが、SNSの良い所だと思う。
まさに言論の自由が形になった時代だと思う。
僕の死んだおばあちゃんは、一般庶民だったけど、政治に関する本や新聞が好きで、よく投書をしていた。でも、実際に新聞などに載るのは選ばれた投書だけだったと思う。もしすべての投書を載せていたら、どれだけ分厚い新聞になっただろうか?
そういう意味では、SNSはすべての投書を載せてくれる、まさに言論の自由の時代の象徴だと思う。
おばあちゃんが生きていたら、僕はnoteを薦めただろう。僕とふたりでSNSを話題にして楽しい時を過ごせたかもしれない。
ただ、読んでもらえる文章とはどんなものだろう?SNSはすべてが載ると言っても読まれるためにはそれなりの文章でなければならない。
僕は約一年間投稿生活を続けてきて思うことは、僕のように自分の考え、つまり思想を書く場合、文章が上手いとか、良い情報が手に入るとか、そういうことではなく、正直な気持ちを書いたものが、「スキ」を多く貰えるし、たくさんの人に読んでもらえるのだと思う。
知恵を捻って嘘を書いてもあまり読まれない。
長いものは読まれず、短くてうまくまとまったものが読まれるのかと最初の頃は思っていたけど、どうもそうではないらしい。僕は小説を投稿することがあって、長い小説も短い小説も投稿したのだけど、その中で一番長い小説が一番多く読まれているようだ。その小説はある文学新人賞に応募して落選したものなのだけど、何度も推敲し「もしかしたらイケるかも」と思っていた作品で、文学新人賞は獲れないけど、SNSではある程度読まれる作品であることがわかった。冷静にこの作品と、文学新人賞を獲るような他の誰かの作品と比べても僕の作品の弱さあるいは強さがわかる。そういう意味で、作品を公にできることはいいことだと思う。小説でなくともエッセイというか小論文みたいなものでも、文章の長さより質が読者を得るのに重要になることもわかった。良いものを書く場合、内容が深まるためには、ある程度の長さも必要だとわかった。ようするに読者が「読んでよかった」と思えるものを書かなければ、せっかく投稿しても読まれずに終わってしまう。
読んでもらうことについて僕が大切にしていることは、読んだ人数も大切だけど、少数でもいいから読んだ人の心に突き刺さるかどうかが大切だと考えている。特にコメントが返って来て、「感動しました」とか言ってくれるのは嬉しい。また、これは僕の個人的な価値観かもしれないけど、褒められるだけでなく批判してくれることも嬉しい。中にはろくに読まずに的外れなことを言う人もいるけど、きちんと読んで考えてからコメントしてくれるのは本当に嬉しい。僕がコメントを返すとまたコメントが返って来て議論になるのは同じ世界にいる知らない人と熱く語れる素晴らしさがあると思う。でも、熱くなりすぎると失礼なことを言ったり、気分を害してしまうことあるいは害されることになったりするので、そこは常識的に考えて深入りはしないようにしている。
ここまで書くことについて書いてきたけど、僕は読むことも大切にしている。
作家とか有名な人の文章でなく、無名の人が本気で書いているものは心を打つものがある。作家が軽い気持ちで書いたエッセイが書籍になって本屋に並んだりしているのを見るけど、そんなものよりは、noteでどこの誰かもわからないが、本気で書いたものを読むと、読んでよかったと思う。
とにかく書かねば繋がらない。
僕は書き続ける。
自分を世の中にさらけ出すことは恥ではない。
過去に多くの言論家が自分の頭の中をさらけ出してきたおかげで、現在の世の中があると思う。
僕がその一端を担えるか、わからないけど、考えたことを文章にして世の中に少しでも貢献できたらと思う。
おばあちゃん、いい時代になったよ。