宗教と幸福
宗教とはなんでも、幸福を対置するところから、信者を獲得していく。
「対置」とはつまり、今のあなたは幸福ではない、だから、この宗教を信じれば幸福になれますよ。そういうものだ。詐欺になると、この百万円の水晶を買えば幸福になれますよ、というのもあるだろう。いずれにしろ、宗教の特徴は、現在が幸福でない、完全ではないと否定的に見て、では幸福になるにはどうしたらいいかを説かれるものがほとんどだろう。
例えば、仏教では「すべてを苦しみと見よ」と言うところから始まり、幸福は悟りに至ること、解脱しかないと説く。これも見事な対置であり、「ここ」を否定し、「あそこ」に至るように迫るものである。
私の嫌いな歌に「365歩のマーチ」という歌がある。「幸せは歩いてこない、だから歩いて行くんだよ」、これは現在の自分が不幸であると断定した歌である。「ここ」は私の居場所じゃない、「あそこ」が本当の自分の居場所だから、「あそこ」に向かって歩いて行こう。この構造を取る限り、人は幸福にはなれない。
そのように幸福が「あそこ」にあると考えるよりは、幸福はすでに「ここ」にあると思った方がいい。例えば、「私の国は戦争をしていない、平和な国だ、幸福だ」などというように、自分がすでに幸福であることを確認する思考方法の方が、確実に幸福を確かめることができる。完全な幸福を求めると、必ず「ここ」を否定することになる。完全でないと嘆かずに、不完全でも、「ちょっと幸福」「ここが幸福」と現状を肯定する方がいい。
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