北野武監督の映画『首』の信長は存在感が薄い。
北野武監督の映画『首』を観てから、明日で一週間になる。
多くの人が加瀬亮の信長は怪演だった、などと書いているが、私はそうは思わない。一週間経っても他の人物のキャラクターは印象に残っているのだが、信長の印象はほとんどない。彼は狂人で、人ではなかったからだろう。
残酷なことはたくさんするが、そこに人間の残酷さはなかった。なぜなら、彼は人間ではないからだ。観る者の中に、同じような狂気があれば共感できるだろうが、あの信長は共感できなかった。他の秀吉も光秀も家康もみんな人間の中にある部分、特に「死にたくない」という思いは同じだったと思う。その「死にたくない」と「天下を取りたい」というのは裏表の関係にあり、「天下を取りたい」ために友人を殺すことができる。そこは狂気であるが、我々現代日本の一般人も、出世したいからと何かを犠牲にすることがあると思う。しかし、出世に何の意味がるだろう?命を賭けるほどの意味はあるだろうか?出世に囚われた者は囚われない人から見れば「みんな、アホか」と見えるだろう。『首』の信長は天下を取る出世欲の化身であり。化身である以上、人間ではない。日本一の芸人という曽呂利新左衛門は北野武であり、彼は日本一の芸人になったが、そんな自分がアホみたいに思えているのではないだろうか?映画で大成功し、日本一どころか、世界一成功した芸人のひとりのように思われる彼が、最近、「映画なんかに人生を賭けるものじゃない」などと言っているのは、まさにそんなものに人生を賭ける人間がアホに思えるのだろう。しかし、そういう人々を愛する彼もいるのであって、だからこそ、『首』のような作品に情熱を傾けることができるのだろう。人間とはそのような矛盾した存在だと思う。「出世なんてくだらない」などと言っている人が出世して喜んでいたり、「カネなんて汚い」と言う者が大金を手にして喜ぶこともあるだろう。『首』では出世欲のないであろう庶民が残酷に殺されるシーンが多いが、その残酷さはそのような庶民にも大切な人生がありそれを武士の狂気が殺してしまうという、そういう残酷さだ。けっして命を軽くは描いていない。そんな命を大事にする感覚がありながら、簡単に殺してしまうところに北野の残酷さがある。その残酷さだけを表現したのが信長であり、それは先にも述べたように人間ではないのである。人間の姿をしているが人間でない者の印象は薄いのである。