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徒然エッセイ③ラーメン屋と小説家

今日は休みだったので、昼にラーメン屋に行った。私はラーメンが好きだ。私の住んでいる市内にはラーメン屋がたくさんある。今日は以前行ったことがある魚介系のスープのこってりした醤油ラーメンの店に行き食べた。以前食べたときの味をもう一度味わいたかったからだ。ラーメンというのは面白くて、素人の私でも、「あの店のスープは魚介系で」とか、「あの店は豚骨の塩ラーメンで細麺のところがいい」など品評できるところがいい。私のようにラーメン屋を食べ歩いている人は全国でも多いはずだ。

もし、自分がラーメン屋を開くとしたら、どんなラーメンを作ろうか、などと考えたことがある人も多いと思う。たしかにそういう空想は面白いが、ほとんどの人は実際にラーメン屋になることはない。なぜなら、まあ、飲食店全般がそうかもしれないが、ラーメン屋は栄枯盛衰が激しいからだ。私が住んでいる市内でもかつてあった店が、いつのまにかなくなっているということはよくあることだ。そんなリスクがあるにもかかわらずラーメン屋を開こうとする人は後を絶たない。やはり、魅力があるのだろう。

ところで、私は小説家を目指しているのだが、小説家は上手くすれば自分の書いた作品が百年後も読まれることになるのが魅力だと感じている。
しかし、ラーメン屋はどうか。百年後に自分の作ったラーメンを食べてもらえるだろうか?レシピを残したとしても、「自分が」作るわけではない、百年後には死んでいるからだ。そういうことはみんなわかっていて、ほとんどのラーメン屋が百年後のことを考えていないと思う。小説家も「今の読者が楽しめればそれでいい」と考えている人もいるかもしれないが、とくに純文学を書いている人は死後も読まれたいと思っている人が多いのではないだろうか。
つまり、ラーメン屋は現在の客を喜ばせることだけを考えており、小説家は現在だけではなく自分が死んだ後の読者を楽しませることまで考えているとまとめられると思う。
これはどちらが優れているということを言いたいのではない。ラーメンは一回性の物で、もちろんリピーターはいるだろうが、百年後まで店が続くのは余程の名店だ。しかし、ほとんどのラーメン屋の主人は百年後のことなど考えていないように想像できる。カウンターならば目の前に客がいる。美味そうに食っているのを見るのは気分がいいだろう。それと反対に小説家は読者が自分の目の前で自分の小説を読んでくれることなどまずない。事後的に「面白かった」と伝えられるものだと思う。事後的でも嬉しいのだが、それはラーメン屋の評判と通じるものがあるかもしれない。しかし、百年後の読者の感想を聞くことは小説家にはできない。それを求めているにもかかわらずできない。

役者の世界では映画俳優よりも舞台俳優のほうが格が高いそうだ。格云々は私にはわからないが、役者としては観客の目の前で演じることが、映画撮影にはない魅力だという。それは私にもよくわかる。しかし、舞台は形として残らないではないか。しかし、残らないからこそ魅力であるのだと思う。

私はラーメン屋でも舞台俳優でもなく小説家を目指している。一回性という魅力は小説にはないのかもしれない。しかし、形として将来に残ることにラーメンや舞台にない魅力を私は強く感じる。私は小説を書き終える時間は深夜になることが多い。その時間私は宇宙とか神とかを感じながら作品のラストを書いている。書き上げたら死のう、そのくらいに思う。その興奮が文字として刻印されていく。そして、文章としてそれが形になる。百年後にもあるいは千年後にも私のある深夜の興奮が伝わればそれが小説としての本望だと思う。

私はこの文章でラーメン屋と小説家のどちらのほうが価値があるかを言おうとしたのではない。職業により価値の基準が全く違うということを言いたかったのだと思う。
とくに今回は一回性について考えた。
しかし、人生とは基本、一回性のものである。そういう意味では小説よりもラーメンのほうに分がありそうだ。ラーメンに限らず、食事は楽しいものだ。特に誰か親しい人との食事は楽しい思い出として残る。独りで読書した思い出など、内容は価値があるにしろ、人生の充実度としては食事にはかなわない。しかし、まったくの赤の他人でも、同じ小説を読んだことがありそれを話題にできることは、人間が発明したものとしては貴重なものだと思う。

美味いラーメン屋の噂は、言葉で伝えられるのが常だ。インターネットで写真でも伝えられるが、それでも言葉にはかなわない。人間は言葉を媒介にして世界を構築している。小説はその媒介の一種として存在している。媒介の中の創作物として現実を補完するものとして存在している。小説を読むと世界の見え方に影響が出る。ラーメンも大事だが、読書の習慣がない方にはぜひ読書を薦める。逆に読書ばかりの人は外へ出ろ!
ラーメンが現実、言葉が媒介、人は媒介を通して現実に働きかける。それが人間の営みというものだと思う。現実に働きかけないものは行為ではない。言葉だけでは生きていけず、言葉なしの行為はただの「動物」の行為だ。「動物でもいい」と言う人がいるかもしれないがそれは逆に人生の一回性を無駄にしているような気がする。

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