幸福と満足について考える
人生のゴールは幸福になることだと考える人がいると思う。
しかし、私はこう考える。
ゴールとは満足することであり、幸福は常に途中にある。なぜなら、ゴールが幸福だとしたら、その人はそれまでずっと不幸であることになる。
生きる目的は満足することにあると考えたほうが良い。しかも満足は人生の終わりに一度だけ感じるものではない。例えば、職人が一仕事終えて自分の作った完成品を眺めるとき、その職人は満足していると言える。そして、次の仕事に取り掛かるわけだが、当然、次の仕事はまだ完成させていないわけだから満足していない。もし、不慮の事故、例えば交通事故で、その職人が死んだら、その途中だった仕事に対して不満足のまま死ぬことになる。しかし、過去に作ったひとつひとつの作品に満足していればそれでいいと思う。志半ばで死ぬことは不幸だと言われるが、不幸という言葉を使うべきではなくて、不満足という言葉を使うべきだと私は思う。しかも、その途中であった志についてのみ不満足である。
人生をひとつの作品と考えて最終的に満足できるかどうかを考えるべきではないと思う。満足は途中でいくつも経験するものだ。
私は小説を書いているのだが、全力を出し切って作品を書き上げたとき、「俺は満足だ。もう死んでもいい」と本気で思う。現在執筆中の作品を残したまま死ぬことは不満足だと思うが、過去にいくつも満足できる作品を書き上げていれば全体としては満足だと思う。
さて、満足のことばかり書いた。次は幸福について書こうと思う。
私は精神病(統合失調症)を長い間患っていた。そのため、例えば、空を見上げてその美しさを感じることができなかった。それを感じることができるだけで幸福ではないかと思った。
だから、金持ちだから幸福だとか、貧乏だから不幸だとか、そういうことではない。誰の上にも空は広がっている。それに気づくかどうかが問題なのだ。家がある、家族がいる、友達がいる、などというのは幸福の条件ではあるが、絶対条件ではない。
美しいものを美しいと感じる心があるかどうかが絶対的な幸福かどうかを決めることではないかと思う。
たしかに、好きな人と共に過ごすことに私たちは幸福を感じると思う。私は友達が少なく恋人がいない。しかし、それを絶対的な不幸だとは思わない。好きな人と共に過ごすことは幸福かもしれないが、友達が多いとか恋人がいるとかいうだけでは幸福かどうかの絶対的な指標には必ずしもならない。その心の通わせ方が問題だと思う。それは空を見て美しいと感じることと同じで、空に心を開くように、隣人に心を開くのだ。そのためには常に私たちの上に空があるように、常に良き友になってくれそうな隣人がいなければならない。だから社会に参加していることが大切なのだ。そして、それら隣人に対して心を開くだけで心通わせることができ、充分幸福になれると思う。あとは満足というゴールに向かって走ればいい。
満足は人生の目的であり、幸福は人生の過程の在り方だ。