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フィクションの無い世界は存在しうるか?宮崎駿『君たちはどう生きるか』を読む

私は小説家として名を成してやろうと思っている人間である。
最近、宮崎駿の『君たちはどう生きるか』について色々述べた文章を投稿している。
今回もそれをやろうと思っている。
今回、『君たちはどう生きるか』の中の言葉を読み解こうと思うのだが、その言葉は、死にゆくペリカンの言葉、「ここは呪われた海だ」である。
この言葉は言い換えれば、「フィクションの世界は呪われた海だ」と読める。もしかしたら宮崎駿は単に「アニメの世界は呪われた海だ」と言いたかったかもしれない。しかし、小説家として生きていこうとしている私には、大きく「フィクション」と読ませていただく。
アニメというのは現在四十代の私が子供の頃は子供の物だった。大人でアニメを観ている人は、「オタク」と呼ばれ、気持ち悪い男たちあるいは気持ち悪い女たちの代名詞だった。宮崎駿が若い頃のアニメーターに対する世間の眼差しは想像に余りある。しかし、宮崎駿、高畑勲らは、アニメを大人も観る物、けっして気持ち悪いオタクだけの物ではない、堂々とした芸術に高めてくれた。
私は今もアニメオタクが嫌いで、特にエロマンガを描く類いの輩が大嫌いである。絵を描く才能、私にはない才能を、そのような下劣な物を描くために使って欲しくない。絵を描く才能はあっても、同時に物語を書く才能がある者は少ない。新海誠などはその才能を持った人間だと思う。
『君たちはどう生きるか』にはそのようなアニメの世界に進もうとしている若者、もっと大きくフィクションの世界に進もうとしている若者にその生き方を問いかけているように思える。「そこは呪われた海だぞ」と宮崎駿は言っているようだ。
そこは美しい世界ではある。大伯父はそれを眞人に継いで欲しかった。しかし、眞人は悪意のある現実で友達を作って生きていくことを選んだ。田舎に転校した金持ちの坊ちゃんが、内向的に美しいフィクションの世界に閉じこもるか、不良のいる現実で人間関係を築き生きていくか。
と二元論的に考えそうになって私は思う。
「フィクションの無い世界は存在しうるか?」と。
私が不良ならば、いじめられっ子から、カネを巻き上げ、そのカネで女と遊んだかもしれない。その女はきっとセクシーで愛嬌のある美しい女だったかもしれない。しかし、その美しい女、つまり美人は実在するのだろうか?背後にプラトンの言うようなイデアの世界がないだろうか。私も一般男性の思う、美女とブスの違いがわかる感覚はある。ただ、私は文学や哲学をやった結果、顔の作りが綺麗だとか不細工だとかでは美女かどうかを判別しない。美女、美人とは倫理的に善である人のことを想像する。いや、今回はそういう美人論の話ではない。私は顔の作りで美人かブスかを言わないがそれでも顔の作りの美しさはわかる。その背後にはイデアの世界、あるいは、フィクションの世界を想定できる。テレビや映画、あるいはアニメで見てきた美人と現実の自分の周囲にいる女性を照合し、美人かブスかを判別する。そういうことは一般の人は多かれ少なかれやっていると思う。もし、フィクションの世界がなかったら、この世にそういう「カタチとしての美人」は存在しなくなる。あくまで倫理的に美しい人が存在することになるだろう。
しかし、もう一度問うが、「フィクションの無い世界は存在しうるか?」。
私たちの住む現実には、人だけでなく、人の着る服、住むための家、車、道具、などなど、人間が作った物で溢れている。それらには必ずデザインが施される。デザインはアートである。カタチある物である以上必ずデザインは施される。もし、文学や映画などフィクションの物語が存在しない世界になっても、デザインがある以上、そこにはデザイナーの思想が入り込み、我々はその思想の中で生きていくことになる。その思想とは?世界のイメージをデザイナーは作り出す。人々はどんな服を着たいか、どんな家に住みたいか、考える。その服を着て誰と何をしたいか、その家に誰と住みたいか、考える。そこには想像の世界がある。現実とは言え、想像の世界はリアリズムの効いたフィクションである。
私は小説家になろうとする前はマンガ家を目指していた。ゆえに自分のイメージの世界を構築することに学生時代打ち込んだ。それは既存の世界観で青春を謳歌しようと思う人とは違う生き方だった。そのため、いかに人がフィクションの中にいるかを強く感じていた。
現実とは欲望というフィクションに取り巻かれた世界である。私たち人間はフィクション無しでは生きていけないであろう。壁の上に帽子が見えたら、私たちは壁の向こうに人間がいるだろうと想像する。その想像がフィクションである。宮崎駿はフィクションの中に美しい世界を築くことを良しとしなかったかもしれない。いや、美しい世界を作ったことを誇りに思っているかもしれない。私たちの世界には確かに宮崎駿が作った美しいアニメの世界が存在している。その他芸術家たちが創作した、物語、美術、デザインは存在している。私たちはそれらを使って現実のイメージを持つ。自己のイメージも持つだろう。果たして、フィクションは呪われた海だろうか?

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