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メディアと自分の現実世界
今日、父とこんな会話をした。
「お父さん、陥没事故のこと言ってるけど、それってテレビの中のことじゃない?」
「何を言ってるんだ。現実に起こったことだぞ」
「うん、たしかに現実に起こったことかもしれない。でも、それがお父さんにどんな関係があるの?」
「あの陥没事故はどこにでも起こりうることだぞ」
「うん、だから、それを聞いた静岡に住む退職教師のお父さんは何をするの?」
「何をすると言っても、知ってるか知ってないかは全然違うじゃないか」
「いや、そういう事実があったことは知っておいてもいいけど、そんなことを大きな話題にするのはテレビに踊らされてない?」
「おまえはテレビを軽視しているだろう?」
「いや、軽視というか、俺は物心ついた頃からテレビを見ていて、テレビは当たり前に日常にあった。だけど、それはメディアであって自分の現実じゃない。外で友達と遊んでいたところに現実がある。お父さんは退職後、何をしたの?メディアと現実の境界が曖昧になってない?」
「メディアにあることは現実に起こっていることだぞ。CGじゃないんだぞ」
「いや、そういうことを言ってるんじゃないんだよ。たしかに現実かもしれないけど、お父さんの頭の中はその情報に過剰に占めてられているんじゃない?」
「おまえはテレビを見ないから情報が偏っているんだ」
「俺は今年、ペルーに旅行に行くから、アンデス文明の本とか読んでいるけど、それもメディアで、実際にマチュピチュを見てきて初めて現実のマチュピチュを知るんだよ。お父さんだって、アンデス文明のこと知らないでしょう?そっちの知識を知っているのが偏っていて、陥没事故の報道をたくさん聴いているほうが偏っていないって言うの?」
「じゃあ、おまえは『平家物語』のことをどれだけ知っている?(注:父は『平家物語』の現代語訳を退職時自費出版している)」
「いや、だから、お父さんは『平家物語』に詳しいと思うけど、それはアンデス文明に詳しいとかと同じで偏っているわけじゃない。俺はただ、メディアの情報で自分に関係なさそうなものはシャットアウトしてるだけだ」
「そうやって、おまえは自分の関心のあることだけに偏るんだ」
「俺、マイクロソフトで色々検索するけど、あのトップ画面に色々ニュースが出てくるんだよ。それで、仲居が女をナントカしたとか、それはフジテレビが悪いとか、あ~、そんなことが巷では話題になっているんだなぁって思うだけで、俺には関係ないと思ってその記事は見ないようにしていたよ」
「それが偏りだ。世間知らずになるだけだ」
「いや、仲居もフジテレビもどうでもいいでしょう?俺には関係ないもん。そういうことに大切な自分の脳みそのエネルギーを使うのはもったいないと思う。俺は小説が売れたいから小説書くことにエネルギーを使いたいんだよ」
「ようするに自分の世界に閉じこもるんだろう?」
「いや、自分の現実だよ。ようするにね、俺が言いたいのは、お父さんはもっと現実の中で生きて欲しいんだよ。せっかく元気なんだから旅行するとかさ、そういう現実を楽しんで欲しいんだよ。テレビばかり見てないでさ」
この文章は実際にあった会話に少し手を加えて書いたが、私の言い分はわかっていただけるだろうか?この父というのは実際の私の父だが、同じようなことがこれを読んでいるあなたの頭の中でも起きていないだろうか?陥没?仲居?フジテレビ?そういうことに過剰に詳しくなっていないだろうか?もしかしたら、ウクライナ戦争やガザ地区のことあるいはロサンゼルスの火災のこと、ワシントンの飛行機事故のこと、そういうことに詳しくなって、それで世の中を知ったようになっていないだろうか?自分で足を運び、見聞し、現実の世界を見ることから遠ざかっていないだろうか?
私は東日本大震災の起きた日、静岡の自宅にいた。私は就職活動中だった。自宅も揺れたのですぐにテレビをつけた。ヘリコプターだったか飛行機だったか忘れたが、上空からの映像で名取川を津波が遡っていく、周りの平野も津波に呑まれていく。自動車で逃げる人々。ああ、早く逃げて、ああ、そっちはまずい、ああ、車が呑まれた。などと生中継の悲劇をテレビ越しに見ていた。自分は安全地帯にいて、恐怖の現場を見ていた。あの震災で日本をひとつにしたのはメディアだった。いや、日本をひとつにしただろうか?私は就活をしていた。働いている人は自分の仕事をしていたに違いない。それが自分の現実だった。
私は二年後、気仙沼を訪れた。建物の流された平地、道路だけが新しく盛られて舗装されてあった。私はその翌日、中尊寺金色堂を見た。ようするに、気仙沼には観光ついでに行った。不謹慎かもしれない。しかし、私は今でもあの気仙沼の光景が眼に焼き付いている。テレビで見た惨劇より、実際に足を運んだ気仙沼の光景の方が現実として思い出される。
私はこの文章で、メディアを見るだけではダメだ、ボランティアに行け、と言っているのではない。ただ、自分の現実を生きて欲しいと思うだけだ。
父にはもっと旅行などして老後を楽しんで欲しい。