つまらない山に登る意味
私はそのときたった独りで、登山道を登っていた。四月のまだ肌寒さの残る富士の外輪山のひとつ、毛無山である。
この山の富士側の麓はまさに「麓」という名の土地のようで、私は駐車場に軽自動車を置き、登山靴に履き替え、ザックを背負って登山道に入った。午前八時半である。
それから、私は急登の登山道を登り始めた。ただ、体力の奪われるばかりで面白くない道である。途中、はさみ石などと名付けられた岩場があるが、名付けられているわりには面白くない岩場である。滝を見る場所もあるが、別段面白く感じられるわけでもなかった。
標高が高くなるにつれ、落葉樹の森になったらしく、木々の葉は落ちていて、空が見えていた。後ろを振り向けば、富士が姿を見せている。
ほぼ常に木々の枝の間から富士を見ることができる。
その悠然たる姿に見とれることも許されず、樹木が煩わしく思われるばかりだ。私はこの山に登るのは恐らく三回目か四回目で、この山は山頂だけ、東側に木がなく富士を見ることができるが、登山道は至ってつまらない山であると知っていた。
ではなぜ登るのか?
私にはわからなかった。
つまらない山に登る意味・・・。
意味はないと思われた。
私はこの四月、初めて独りでの雪山にチャレンジしたかったのだ。もしかしたら、千九百メートルあるこの毛無山には雪が残っているのではないか、そう思ってきたが、当てが外れてしまった。富士にはまだ雪があるが、この山にはない。
登る理由はなかった。
私は、昨年の夏山では、剣岳に登っている。これは非常に面白い山だった。私の去年のメインイベントであった。そのために何ヶ月も前から計画を練り準備していた。電車とケーブルカーとバスを使って、室堂に入り、そこから入山した。その富山駅からの電車がすでに観光的だった。室堂は登山客ももちろんいるが、普通に観光に来た旅行客も多くいて、これからさらに奥に行く自分が剣岳という魔王に挑む勇者のごとくに思えて、誇らしかった。「つるぎ」、よい響きだ。まさに偉大な山という気がした。
それに比べてどうだ?
毛無山?
「けなしやま」と読むこの山名自体があまり興味をそそられない。
そんなつまらない山に登る理由を考えることは苦痛だった。
しかし、私は何かを期待していた。このつまらない山に登ったあとの私は何を得るのだろうか?つまらないこと、誰に言われたでもなく、頑張って成し遂げた、カネにもならない趣味というよりほぼ仕事であるようなこの登山を私はどう語ることができるだろうか?そこに興味があったように思う。私はこの山に登るとき、山の美学を語ることを考えていた。人はなぜ山に登るのか?それはよく語られるテーマだが、たいがい、その答えには山の素晴らしさが語られるようだと思う。先に述べた剣岳のように、語っても語り尽くせぬ素晴らしい山がある。剣岳ならば雄弁に語ることは容易いだろう。
しかし、この毛無山である。
富士をゆっくり見るのは山頂のみであとは樹間に隠れている。南アルプスも山頂近くの岩をよじ登ってようやくひとりが立てる場所から見えるのみである。それも遠くに見えるだけであまり清々しい気がしない。あとは何の変化も無い急登の登山道を二時間四十五分かけて登るだけである。アップダウンのダウンというものがなく、ずっと登りである。特に危険な箇所も無く、単調に登るだけである。私は仕方なしに頂上でラーメンを食べることの楽しみを考えた。
しかし、それが登山の楽しみだろうか?
山頂でメシを食べることだけが。
登ること、歩くこと、その楽しみにはどういう意味があるのだろう?ただ、コンロで湯を沸かして、ラーメンを食べたり、コーヒーを淹れたりするのであれば、キャンプ場で楽しめばよい。それだけを楽しみとするならば山に登る意味はない。もし、毛無山を初めての登山としたら、その人は登山とはただきついだけで、面白くないものと思うに違いない。山の上の景色とは誰もが美しいと思うものである。しかし、そこに登ろうと思う者は全人口比では少ないだろう。世界の人々の中で登山を趣味とする人の割合はわずかであるはずだ。なぜ、登山者は苦しい思いをして、登山道を登るのだろう?しかも、日本アルプスのような、風光明媚な登山道ではなく、毛無山のようなつまらない登山道を登るのは何かの修行なのか?あるいはトレーニングなのか?私は修行ともトレーニングとも思わない。
結局、登って来て、数日が経ち、こうしてその登山を振り返っているが、登ったことを後悔などまったくしていないし、登ってよかったと思っている。疲れもまだ取れていない。しかし、その筋肉に残った記憶が、また私を山に駆り立てているような気がする。また山に登りたいと思う。その衝動の欲望を満たすには、どんな山でもよい気がする。登って後悔する山はない。ただ、他の山との比較があるだけだ。
私は文章家である。ひとつの登山で、多くを語る者である。このつまらない毛無山をいかに魅力的に書くかが、文章家としての手腕を問われているのかもしれない。しかし、つまらなかった山を面白かったと書くのは詐欺である。私が書くべきことはそういうことではなく、つまらない登山道をなぜ登るのか、それである。
山は数多ある。
当然、当たり外れがある。
外れがあるからと言って、登山自体がつまらないものであるとは言えない。それは天候のこともある。雨の不快な登山もあるだろう。しかし、登山道がつまらなかったり、天候が悪かったり、そういうことはよくあることだ。しかし、私はどのような登山も後悔したことは一度もない。
当たり外れがあるのは釣りなども同じだろう。外れを経験しなければ当たりを味わうことはない。外れを知っているからこそ、天候に恵まれた素晴らしい登山で感動することができるのだと思う。
私はここで勢い、つまらないこと、苦しいことを経験しない者は素晴らしい体験ができないなどとまとめようと思った。しかし、それがこの記事をそもそも書こうと思った眼目ではない。私はつまらない登山も大切な思い出なのだと言いたい。苦しいことの果てに楽しいことがある、だから耐える、と言うのでは、もし、楽しいことがなかったら、苦しいだけの体験は意味がなかったことになる。そうではなく、苦しいこともいい思い出なのだと私は言いたい。
どんな登山も後悔することは絶対にないのだ。